子どもの風景
松沢哲郎

子どもの風景

2017年1月8日付愛媛新聞(掲載許可番号:G20180201-03549)

松山で生まれ、物心ついた時は東京の下町にいた。父母ともに小学校の教師で、年の離れた2人の兄がいた。教員寮というアパートの一室。丸いちゃぶ台を囲んで、身を寄せ合うように暮らしていた。

近くの「ともしび幼稚園」に通った。同じ寮に音楽の先生がいてオルガンを習った。でも家にオルガンはない。母が板に紙を貼って、実物大の白鍵と黒鍵を描いてくれた。それで指の動きを練習した。ミカンの入っていた木箱にもデパートの包装紙をきれいに貼ってくれた。箱の中に絵本を入れれば勉強机だ。自分だけの机がうれしく誇らしかった。

戦後十余年、まだ日本中が貧しかった。つつましい暮らしに不満はなかった。長じて結婚して2人の娘を得て、さらに2人の男の孫を得た。娘たちは桑の実を頬張り、カブトムシやクワガタのいる林のそばで成長したが、孫の世代になると家の中で自動車や積み木で遊んでいる。この半世紀で、子どもを取り巻く風景は激変したと思う。

当時の東京の少年たちの一般的な楽しみの一つは伝書バトだ。窓辺に木組みの小屋を作って、兄たちがハトを飼っていた。餌を用意したり、水を取り代えたりする役目をもらった。荒川の堤防近くだったので、段ボールを尻に敷いて草滑りをして遊んだ。海も近くて風が潮の香りを運ぶ。休みの日にはハゼ釣りをした。

小学校3年生のときに、両親が郊外の千葉県に家を建てた。そこから遠距離通学で小中高と東京の公立校に通った。新興住宅地なので、田んぼや麦畑が広がっている。道すがら、オタマジャクシやアメンボに見入る。ザリガニを釣る。近くの雑木林では、秋にはクリが実る。

庭に畳2枚ほどの広さの大きな鳥小屋を兄たちが作った。キジ、チャボ、ウズラ、ルリカケス、セキセイインコ、ブンチョウ、ジュウシマツ、キンパラ、ギンパラ。家の中ではシマリスやシマヘビを飼った。熱帯魚もいた。

夏休みは母に連れられて松山に帰った。急行「瀬戸」という夜汽車で、松山に着くと道後温泉に入る。母方の大野家は、久万町いまの久万高原町の山深い場所にある。若き日の両親は麓の明神小学校で出会ったそうだ。母の実家で過ごした日々を思い出す。大きな池があってコイが泳いでいた。馬場という地名があってそこには実際に馬がいた。いとこはアオダイショウの尻尾をつかまえて振り回し、おじはニワトリをしめて歓待してくれた。

振り返ると、人生に三つの偶然があったと思う。京大に行った。霊長類研究所に就職した。そこでチンパンジーのアイに出会った。当時1歳だった女性のチンパンジー1人(チンパンジーはヒト科なので1人、2人と数え、男性、女性と呼ぶ)、若い助手の私が1人。彼女の目に映る世界を、文字や言葉を教えて引き出す研究をしてきた。今年で40年になる。その一方で、アフリカへ行って野生チンパンジーのくらしを毎年追っている。石器を使うことで有名な群れだ。昨年末から彼らに会うためアフリカにおり、この原稿もギニアで書いている。

本人としては何も自覚しなかったが、動物たちに寄り添うような子ども時代のくらしがあって、今の道へと自然に通じていたのだと思う。