Credit: Primate Research Institute, Kyoto University
アユムの新生児微笑(18秒付近で笑います)

モニターの中で,母親の腕に抱かれ眠っているチンパンジーの子どもが,「ニッ」と微笑んだ。2000年,夏のことだ。ヒトの子どもの「新生児微笑(自発的微笑)」とよく似た表情だった。

ヒトの子どもは,眠っているときに何の脈絡もなく「ニッ」と口角を横に引き,あたかも微笑んでいるかのように表情を変化させる。この生後間もない新生児期にみられる表情が「新生児微笑」である。 これまで,このような表情は,ヒトに特有なものだと考えられてきた。しかし,京都大学霊長類研究所で誕生したアユム,クレオ,パルを生後直後から観察することによって,チンパンジーにおいても,非常に明瞭な「新生児微笑」が生起していることがわかった。研究所で3組の「チンパンジー母子」を研究することは,まったく新しいチンパンジーの子どもの発達研究といえる。

「ヒトの母親が育てたヒトの子ども」の発達と真に比較する素材を得ることになるからだ。

「母親」とのやりとり

「新生児微笑」が示すように,「微笑」という表情それ自体は生得的なものだ。そうした生得的な行動が社会的な文脈の中で意味を持つように変化していく。その中でも,母親とのかかわりは重要だ。アイとアユムの場合では,生後9日目に,アイは,子どもを「見つめる」という行動をした。

アユムの頭をもってわざわざ自分の方にむけ,毛づくろいをするわけでもなく,ただアユムの顔をじっと見つめていた。生後18日目には,あぐらのような姿勢をとったアイが,足の上にアユムをそっとのせた。母親が自ら子どもとの対面場面をつくりだしたのだ。アイは, 仰向けになったアユムを見つめながら,何か全身をチェックしているようだった。この時期における母親と子どもとの対面場面は,クロエとクレオ(生後17日齢),パンとパル(23日齢)の母子でもみられた。

母親は,おそるおそる子どもを自分の体からはなし,子どもを見つめる。生後3~4週目には,母親が首筋やわきをさわると,子どもは口を大きく聞けた。母親に対する「笑顔」だ。母親の働きかけに対して,表情の変化で応答するようになった。わずか生後1カ月で,こうした母子の眼と眼を見あわせた「対面のやりとり」が観察された。

Credit: ANC
図:ペンデーサの働きかけに「笑顔」でこたえるアユム。2000年7月。アユム4カ月

「笑顔」による仲間との交流

他のチンパンジー,とくに子どもをもたない女性にとって,子どもの存在は興味の対象となっていた。母親の様子をうかがって子どもにそっとふれる。何とか子どもにさわろうと,母親にとりいるように,熱心に毛づくろいをすることもあるこのようなチンパンジーの仲間に囲まれて,子どもの行動は大きく変化していった

生後3~4カ月ごろになると,子どもは,母親と密着して過ごす時間が減少する。自分の周囲へ興味を示していくそして,自発的に母親から離れていくようになった(アユム;98日齢,クレオ;110日齢,パル;80日齢)。母親以外のチンパンジーが顔をのぞきこむと,子どもは相手の眼を見て「笑顔」でこたえる(図)。その表情を見たチンパンジーは,もっとおかしな表情をしてみせたり,木の枝や葉を使って子どもの気をひこうと必死になる。ヒトのおとなが,イナイ・イナイ・バーをし,ガラガラをふって,子どもの「笑顔」をひきだそうとする様子と,とてもよく似ている。

子どもたちが1歳をすぎてから,日中は母親といることが珍しいぐらいになった。よく動きまわり「笑顔」をさかんにみせている。遊び相手は,別の子どもである場合が多い。子ども同士がじゃれあう姿がよく観察される。相手を叩いたり引っ張ったり。おとなから見ると,その交渉は多少あらあらしい。ケンカをしているようにもみえる。しかし母親たちは,子どもたちの交渉を止めたりはしないで,ただ見守っている。子どもたちが「笑顔」をみせているからだ。母親は,子どもの「笑顔」をみることによって,子どもがその遊びを楽しんでいることを理解している。母親にとっても子どもの「笑顔」は,子どもの様子を推測するための重要な手がかりになっているようだ。

子どもたちは,他者からの働きかけに対して,応答的に表情を変えるだけではない。能動的にさまざまな表情をする。たとえば,遊ぼうとする相手には,口を大きく丸く開けた表情で「笑顔」をつくって向かっていく。何か不満なことがある場合には口を尖らせる。また,最近見られるようになったのだが,自分の興味を示したものをあつかう際には,静かに「ニヤッ」と微笑むような表情をみせることがある。

先日,野生チンパンジーの研究のためアフリカに出張した松沢が帰国したときのことだ。この日アユムは,松沢と約3週間ぶりの再会だった。アユムは,すぐには抱きつかなかった。何か変化に気づいたらしい。松沢の顔を興味深げにじっと見ている。そして,松沢の顔に人差し指を伸ばした。3週間分の髭だ。以前はなかった髭を一生懸命いじりだした。そのときアユムは,髭に顔をぐっと近づけて「ニヤッ」と微笑んだ。

このように,チンパンジーの子どもたちは,さまざまな表情や音声,身体全体を使って気持ちを表現していくようになるのだろう。「笑顔」は,どの子どもにも毎日みられる表情だ。子どもたちの「笑顔」を追いかけていくことで,彼らが何を楽しみ,何を面白いと思うのかを知ることができる。これから先の日々,研究所の子どもたち,アユム,クレオ,パルにとって,「笑顔」がたえない生活が続くことだろう。

Credit: Primate Research Institute, Kyoto University
パルの新生児微笑
この記事は, 岩波書店「科学」2002年3月号 Vol.72 No.3 連載ちびっこチンパンジー第3回『子どもたちの「笑顔」』の内容を転載したものです。