図1: 地上15 mにて,ひとりでロープをわたるパルうしろをレイコおばさんがついてきている. 2002年5月7日 撮影落合知美

青葉の美しい季節になった。チンパンジーの運動場も木々の緑が深さを増している。「五月晴れ」の名の通り,晴れた日が多い。気温も高くなってきた。われわれ人間にとって1年中でもっとも過ごしやすい季節だ。チンパンジーにとってもそうなのだろう。アユム,クレオ,パルの子どもチンパンジー3人とも,母親から遠く離れて,木々の茂みの中やタワーの上を,前にも増して活発に動きまわっている(図1)。

親ばなれへの道

子どもの最も近くにいるのは誰か? もちろん最初の1年間でいえば,ほぼずっと母親なのだが,生後1年目ころを境に,母親から離れて,母親の姉や,母親と親しい女性が一番近くにいる時間が増えてきた。昼間のあいだ,それぞれの子どもの一番近くにいるのが誰なのかをこの1年間記録してきた。子どもたちの社会関係の発達的変化を測るためだ。岐阜大学獣医学部の学生である兼子明久さん,小林真人さん,小野篤史さんがその観察を続けている。

「誰が子どもを抱くのか」という視点でも,子どものつきあいの広がりをみることができる。アユムがちょうど1歳になったとき,母親の幼なじみのペンデーサにはじめて抱かれた。最近では,父親アキラにも抱かれるようになった。アユムより3ヵ月半遅れて生まれたパルは,1歳になる少し前に,伯母に抱かれるようになった。その後,祖母やペンデーサに抱かれるようになった。クレオは,母親以外に抱かれたことはまだない。母親に幼なじみも姉妹もいないからだろう。それでも,もう少し時間がたてば,他のおとなの誰かに抱かれる日がくるはずだ。

2001年の秋,アユムが1歳半になったころから,もうひとつの変化が生じた。子ども同士で一緒にいる時間が増えてきたのだ。追いかけっこをしたり,取っ組み合いをしたり。子ども同士でさかんに遊ぶようになってきた。「一番近くにいるのは誰か」という視点で,最近4月から5月中旬にかけての,子どもたちのつきあいの世界を見てみよう。アユムにとっても,クレオにとっても,母親が一番近くにいる時間がまだもっとも長い。しかし,母親の次には,子ども同士で一番近くにいる時間が長い。パルにとっては,アユムが一番近くにいる時間がもっとも長かった。その次が母親だ。1歳後半から2歳前後にかけて,子どもたち3人とも,しだいに親から離れて子ども同士の世界が広がってきた。

一緒に過ごす3人の子ども
図2: 一緒に過ごす3人の子ども. 左から右下へアユム,ク レオ, パル 2002年3月16日撮影平田明浩,提供:毎日新聞社

同輩関係

4月24日の夕方,居室で過ごす母子を茶谷薫さんと落合知美さんが観察していたときのことだ。パルとクレオが,追いかけっこをして一緒に遊んでいた。突然,パルが大声で泣き始めた。何か気にさわることでもあったのだろうか。泣きながらその場を走り去っていった。母親のパンは,そのとき同じ部屋の寝棚の上にいた。娘の泣き声を聞き,あわてて寝棚から飛びおりた。ところがパルは,母親のパンを通りすぎ,アユムがいる隣の部屋まで走り抜けていった。アユムに助けを求めたらしい。アユムと見つめあい,パルは泣きやんだ。その場に残された母親は,呆然とその様子をながめていた。

以前なら,こんなときパルは必ず母親のもとに戻ったはずだ。子どもにとって,頼るべき存在は母親だけだった。ところが,このときパルが頼ったのは母親ではなく,同年代の友達のアユムくんだったのだ。

子どもたちは,母親からの呼びかけをときおり無視するようにもなってきた。たとえば次のような場面だ。運動場にいる母子を勉強部屋に呼ぶとき,「アイ,アユム,おいで」と母子の名前を呼ぶ。アユムが離れたところにいると,アイが連れ戻しに行く。ところがアユムは,パルとの追いかけっこに夢中で,母親のもとに戻る気配はない。アイがさらに近寄って手を差し出すと,アユムはそれを見て逃げるように遠ざかり,パルとの追いかけっこをさらに続ける。母親の呼びかけに逆らっているのだ。アイは,少し困った様子で,アユムが自分のもとに戻ってくるまで待っている。子ども同士の遊びにひと区切りがついたところで,ようやく母が子どもを胸に抱きとめ,一緒に勉強部屋にやってくる。

「同輩関係」という言葉がある。年齢,地位や立場が同等な者の関係をさす。アユムとクレオとパルは,まさにこの同輩関係だ(図2)。子どもチンパンジーにとって,同年代の仲間との遊びは,他者とのつきあい方を体で感じて学ぶ絶好の機会である。相手がどう出るか,どのくらいまでなら許されるのか,時にはケンカになりながら,対等な関係で他者とのつきあい方を覚えていく。

同輩の絆は,子どもたちが一緒に遊ぶようになった1歳半頃から芽生えてきた。そして,だんだん強さを増してきた。母子の絆に勝ることもある。母親を通り過ぎて同輩を頼ったり,母親の呼びかけに逆らって子ども同士で遊んだり。生後すぐからずっと続く母子の絆と,1歳半頃から芽生えてきた同輩の絆。2つの強い絆を柱にして,子どもたちの世界は広がりを増してゆく。

この記事は, 岩波書店「科学」2002年7月号 Vol.72 No.7 連載ちびっこチンパンジー第7回『子ども同士の世界』の内容を転載したものです。