2001年の11月,クレオが1歳5ヵ月のときのことである。わたしはクロエとクレオの母子と一緒に,ジョージア大学のフラゲージーさんたちが計画した,物の操作の発達に関する共同実験をおこなっていた。クレオの前に,水の入ったトレイとスポンジでできた積木を置いた。すると,クレオは何のためらいもなくスポンジを手に取り,水の中に放り込んだ。さらにはそれを慎重に取り上げ,口の中にほおばった。少しするとチューチューという音が聞こえてくる。はじめて目の前で見た,ちびっこチンパンジーの「道具使用」の瞬間だった。

「道具」を使いたくてたまらない?

第6回で紹介したハチミツなめのように,チンパンジーの道具使用は,母から子へと受け継がれていく。そのときには,母たちおとなの様子をじっと見る「長期観察」と,自分でもやってみる「試行錯誤」という過程を経る。このことは,これまでのさまざまな研究の示唆するところでもある。しかし今回目撃したクレオの「道具」を用いた水飲みは,少し勝手が違う。確かに母親クロエもこの実験のはじめの頃に,同じような行動を示した。しかし,それはほんの数回であり,ハチミツなめの道具使用のように子どもの目の前で親が一心不乱に作業を繰り返す,というものではなかった。だからこそ,私の目には,クレオの行動が突然あらわれたかのように映ったのである。クレオの行動は,あたかも「水の中にスポンジを入れたくてしかたがない」,「水とスポンジがあると,どうしても水の中にスポンジを入れざるをえない」,とでも表現したくなるものだった。

このエピソードの直後,クレオにペーパータオルを与えてみた。すると,何のためらいもなくペーパータオルを水に浸した。そして,それをくわえてチューチューと水を吸いはじめたのである。水を浸して飲まざるをえないかのように見えた。この一連のエピソードから, 「アフォーダンス」という心理学の用語を連想した。アフォーダンスとは,アメリカの知覚心理学者ジェームス・ギブソンが提唱した概念で,「ヒトを含めた動物に対して環境が提供する価値」を意味する。アフォードとは「提供する」という意味の動詞で,アフォーダンスはギブソンの造語である。先の水飲みの例でいえば,水の入ったトレイは,クレオに対してその中に「物を浸す」ことをアフォードしている。そして濡れた物は「口の中に入れて水を舐めとる」ことをアフォードしている。水の入ったトレイはそれ以外にも無数のアフォーダンスを内包している。クレオは,ある日,水の入ったトレイのもつある一つのアフォーダンスを「発見」したと言えるかもしれない。





図: クレオ(約1歳5ヶ月)によるペーパータオルを用いた水飲み行動。くわえていたペーパータオルを手に取り、水の入ったカップの中に入れ、再び取り出して口に入れる. (ビデオから. 撮影:京都大学霊長類研究所)

道具使用を支える「定位操作」の発達

では,その発見はいかにしてなされたか。おそらくは,物を操作する能力の発達がそれを支えているのだろう。チンパンジーでは1歳半をこえるあたりからある物を別の物で操作する「定位操作」が出現するようになる。林美里さんらが調べた結果,今回生まれた3人の赤ちゃんたちでもおおよそ1歳半から定位操作が急にたくさん観察され始めた。とりわけクレオは穴に棒を突っ込むなどの定位操作を非常に熱心におこなっていた。

実は,先の水飲みをカッコつきの「道具使用」と呼んだのにはわけがある。というのは, クレオは吸い取った水を吐き出すということをよくしたからである。つまり,「水を飲む」ということがこの行動の真の目的ではない,ということを意味しているのかもしれない。また,水が入っていないトレイの中にもペーパータオルを「浸す」ことも観察された。だからといってクレオは何でもかんでもむやみやたらに物と物とを関連づける定位操作をおこなうわけではなかった。たとえば,積木を持って遊んでいるクレオの前にコップを置いてみる。するとクレオは何の躊躇もなくその中に積木を入れる。ところが,コップを逆さまにして置いてみると,まったくといってよいほど積木をコップには定位しない。器があると入れたくなる。器が「入れるという行動をアフォードしている」のである。物を別の物に定位する際に,「アフォーダンス」と呼びたくなるもの,あるいは「制約」といってもよいかもしれないようなものが,はたらいている気がしてならない。

何が母から子へと伝わるのか?

わたしが目撃したエピソードとその解釈は,「長期観察」と「試行錯誤」に支えられたチンパンジーの道具使用の獲得と伝播というこれまでの考えに疑問をはさむものではない。むしろ,「何が母から子へと伝達されるのか」というもっと具体的な問いかけへの可能性を開くものだと考えている。西アフリカ,ギニア共和国ボッソウのチンパンジーの水飲み行動はこの点からみて示唆的である。水飲みの調査を担当した外岡利佳子さんは,おとなのチンパンジーでは特定の種類の葉っぱをより好んで用い,その使い方も折り紙のように折りたたんで使うという独特のものであることを発見した。しかし,子どもたちは,葉の選択性は低く,技法も定まっていなかった。

葉っぱを使って水を飲むことは,チンパンジーの優れた対象操作能力と環境の側にあるアフォーダンスを発見することによってそもそも自発するのだろう。しかし,素材や技法といった集団に固有の「文化的伝統」は環境がアフォードしないものであり,そういったものについては母親などコミュニティのメンバーから学ばなくてはならないということではないのだろうか。

この記事は, 岩波書店「科学」2002年8月号 Vol.72 No.8 連載ちびっこチンパンジー第8回『道具使用とアフォーダンス』の内容を転載したものです。