提供:平田明浩/毎日新聞社.2003年2月5日撮影. 電話のおもちゃを自分の右耳に当ててから,相手の右耳に当てるクロエ.撮影:平田明浩提供:毎日新聞社.
図1: 電話のおもちゃを自分の右耳に当ててから,相手の右耳に当てるクロエ.

「サルまね」ということばがあるが,サルはまねしない。「はい,こうやってごらん」と人間がしぐさを示して,サルがすぐにそのしぐさをまねるということはない。チンパンジーにとってもそうした「まね」は容易ではない。ただし,まったくまねしないということではない。稀に,たいへん印象的な場面に遭遇する。プチの話。ある日,飼育員の残したホースとデッキブラシを彼女が手に入れてしまった。すると彼女は,右手にホース,左手にブラシの柄をもち,居室の床に水をまいてブラシでこすり始めた。それまで一度も掃除道具を手にしたことは無い。毎日見ていて,一度自分でも「まね」してみたかったのだろう。

クロエが見せてくれた電話の例も興味深い。井上(中村)徳子さん(共同利用研究員)が中心となって,物遊びの研究の一環として,チンパンジーが日ごろ眼にするさまざまな物を与えてみた。クロエは,本物の電話を見つけると,すぐに受話器をとって耳に押し当てダイヤルをまわした。プチの掃除とまったく同じだ。小椋たみ子さん(共同利用研究員)が,それをさらに一歩進めた研究をしている。クロエに,子供用のおもちゃの電話を与えてみた。ただし,ハンドセットだけでコードも本体もない。いわば携帯電話のような形だ。極端に単純化されたデザインなので,必ずしも電話には見えないかもしれない。案の定,クロエはバリバリと口で噛み壊そうとする。

そこで,クロエの前に座った松沢が,おもちゃの電話を受けとって,自分の右耳に押し当てて,「もしもし,ハイハイ,そうですか」と,電話で話すような演技をした。「ガチャン」と言って床に置くと,クロエはすぐにおもちゃの電話を右手で拾って,自分の右耳に押し当てた。次いで約12秒後に,左手に持ち替えて,おもちゃの電話を松沢の右耳に押し当てた(図1)。そこで「ハイハイ」とまた演技をすると,クロエは電話の耳当ての部分を見つめて,自分の口に押し当て,そしてまた松沢の耳に当てた。

おもちゃの電話を,木の丸棒に変えてみた。直径2cm,長さ10cmほどのただの棒である。松沢が棒を右耳に当てて「もしもし, ハイハイ……」,そして「ガチャン」と床に置く。クロエは棒を拾って,においをかぎ唇で触れたあと,おもちゃの電話と同様にそれを松沢の右耳に押し当てた。本物の電話で遊んだクロエは,おもちゃの電話もそれと理解し,さらには木の棒を電話に「見立て」て遊んでいるかのようだった。

右手にホース,左手にブラシの柄をもち,居室の床に水をまいてブラシでこすり、掃除を始めたチンパンジー・プチ
床を掃除するプチ

2歳8ヵ月のアユムで,思わぬ事件が起こった。
積木を運ぶ「ふり」である。母親のアイと松沢が対面して,積木積みの課題をしていたときのことだ。この検査課題の最中,アユムはいつも部屋の隅の「自分の場所」に陣取って1人で遊んでいる。まず,自分用に与えられた4個の積木をかき集め,両手をそろえて指先を床につけたまま,4個をまとめて,そろそろと後ろ向きに床を引きずって行く。そして1人で積木をもてあそぶ。

その日も,いつもと同じ風景だった。積木をひきずって行ったあと,アユムは床に仰向けになって寝転んでいた。4個の積木はバラバラになってアユムの近くにあった。アユムが突然起き上がった。そして,両手をそろえて指先を床についたまま,そろそろと後ろ向きに歩き始めた。積木をひきずるときのいつもの格好だ。しかし手に積木はない。口はまるく開けてプレイフェイス(遊びの顔)と呼ばれる笑顔をしている。たまたま行く手の床に赤い積木が床に転がっていたが,床についた両手を少し開いて,その赤い積木をとらずにやり過ごした(図2)。指先を床についたまま両手をひきずって,2mほど後ろ向きに歩いて松沢とアイのところにやってきた。そこで180度方向転換して,また両手を床についたままひきずって,後ろ向きにゆっくりと自分の場所に戻った。ずっとプレイフェイスのままである。

アユムのしぐさは,「積木を両手でひきずるふり」をして遊んでいるとしか見えなかった。(1)実際に積木が無いだけで,両手をそろえて指先を床につけたまま後ろ向きに進むしぐさそのものはまったく変わりが無い。(2)行く手にあった赤い積木を取らずにわざわざ回避した。(3)終始プレイフェイスをしていた。そうした特徴があったからである。

障害のないヒトの子どもでは,10ヵ月頃から,他の人の身ぶりや道具の使い方などを「まね」するようになる。1歳を過ぎた頃から,空のコップで飲むまねをするなどの「ふり遊び」を散発的にし始める。2歳になるまでには,積木を自動車に見立てるなどの「見立て遊び」をするようになるそして3歳を過ぎると,虚構場面も含む「ごっこ遊び」もできるようになる。自閉症の子どもは。このような「ふり」「見立て」「ごっこ」などが苦手だそうだ。アユムは,そこに実際には存在しない物がそこにあるかのような「ふり」をした。アユムの「ふり遊び」は,チンパンジーの心の新たな一面をわたしたちの前にはっきりと見せてくれた。「まね」「ふり」「見立て」「ごっこ」,そうした世界は,どこまでチンパンジーの心の中に広がっているのだろうか。チンパンジーの心を探る研究にまた1つ新しい課題が与えられた気がする。


図2: 床についた両手を少し開いて,赤い積木をとらずにやり過ごそうとするアユム.口をまるく開いたプレイフェイスをしている.撮影:松野響.
この記事は, 岩波書店「科学」2003年4月号 Vol.73 No.4 連載ちびっこチンパンジー第16回『「まね」と「ふり」』の内容を転載したものです。