2003年4月,桜の花が散ると,アユムも満3歳になる(図1)。2000年の春から夏にかけて,アユム・クレオ・パルのちびっこチンパンジーたちが誕生した。この3年間,母親に育てられた子どもの発達する姿を,毎日,身近に,観察することができた。野生では,ある母子をきょう観察できたからといって,明日も見ることができるとは限らない。1週間見ないことはざらにある。とくに小さな子どもをもつ女性は身を隠しがちだ。夜はもちろん観察できない。今回近くからつぶさに見ることができた発達的変化について,とくに母と子の関係に注目して生後の3年間をまとめてみたい。

まだ授乳が続いている

チンパンジーは生後3ヵ月ころに歯が生えはじめ,1歳で乳歯が生えそろい,その状態が3歳まで続く。ヒトとチンパンジーは歯の数もはえ方も同じなので,それで比較すると,チンパンジーの生後の3年間は,ヒトの子どもでは生後の6年間にほぼ対応する時期だと言える。

この3年間を振り返り,チンパンジーとヒトの母子関係を比較して,すぐに目に付く違いが3つある。第1に,最初の3ヵ月間,チンパンジーの母親は昼も夜も子どもをずっと抱き続け,子どもは親にしがみついて過ごす。ヒトの母親は,子どもをそっと置いて離れて働く。だが,チンパンジーの母子は1日24時間密着して過ごす。第2に,3歳になってもまだ授乳が続いている。アユムが2歳半のときに,京大の1回生の松井響子さんと河本新平くんの2人が,アイとアユムのまる1昼夜をビデオで記録し分析してくれた。それによると,まだ1日に7回合計10分間の授乳があった。第3に,3歳になって,昼間は親から離れて過ごしていても,夜はいつも母親の胸に抱かれて眠っている。総じて,現代のヒトよりも永くて緊密な,母子関係が認められる。

こうした関係は,野生のチンパンジーを観察していてもそうだ。野生チンパンジーの記録では,平均出産間隔が約5年だ。下に弟妹が生まれるまでのあいだ,子どもは。母親を独占して過ごす。アフリカと霊長類研究所と生活環境に違いはあるが,母と子の関係のような生物としてもっている基本的な性質は変わらないようだ。そして,身近での詳細な観察から,新生児微笑の存在や,眼と眼でみつめあったり,くすぐったり,高い高いをして遊ぶ母子の姿を確認し記録することができた。

ニアレスト・ネイバー

アユムたち3人のちびっこチンパンジーは,母親だけでなくほかの仲間たちと一緒に,1群3世代にわたる14人のコミュニティの中でくらしている。そこで,母と子とほかの仲間たちとの関係を端的に表す指標として,「ニアレスト・ネイバー」の利用を思い立った。「最も近くにいるのは誰か」という指標である。この指標は,(1)定義がきわめて明瞭で,(2)一目見ただけですぐに判断できて,(3)誰と誰が近い(親しい)のかを反映している,という利点がある。

観察は,個体追跡法といって,だれかにずっと注目する。そして,1分間に1度,その時点で最も近くにいるのは誰かを記録した。生後3ヵ月ころ,子どもは母親から離れはじめる。ただし,その親離れ・子離れの遅速には個体差がある。クロエとクレオの母子は,クレオはもう2歳9ヵ月なのだが。互いにいつも最も近くにいる。母親のクロエは4歳でパリからやってきてこの群れに加わった。親しい仲間がいないからか,この母子はひっそりと互いに寄り添っていることが多い。

最も近くにいる個体という観点から見ると,「子どもの親離れ」の方が「親の子離れ」よりも早く進む。つまり,子どもの方は親から離れてだれかに近づいていき,親の方はその子どもについて行って近くに留まる,という状況が多いのだ。そうした親子の分離が始まるとともに,「ベビーシッター」が現れる。母親以外の仲間が子どもを抱くようになる(図2)。アユムのばあいはちょうど1歳のころに,母親以外の者として初めてぺンデーサがアユムを抱いた。彼女は母親アイの親友だ。次はアキラ,父親である。パルのばあいは,ポポが最初に抱いた。母親パンの実姉すなわち子どもにとってみれば伯母である。次は祖母のプチ,そしてペンデーサが続いた。こうして仲間関係が広がってゆく。ただ,クレオのばあいは,まだ母親以外のだれも子どもを抱いていない。

1歳後半から,子ども同士の関わりが増える。2歳を越えると,母親以上に子ども同士が互いに最も近くにいるようになる。親同士は,皆が同じように親しいわけではない。たとえば過去2年間,アイとパンという2人の母親は一度も毛づくろいをしていない。広くもない運動場なのだが,互いに「最も近くにいる者」にならない。年少のパンの方がアイを避けているふしがある。しかしその子どもたち,アユムとパルはとても仲良しだ。

まず,母親と子どもが密着して過ごす時期があった。次に,母親の社会的ネットワークに規定されるかたちで子どもの社会的ネットワークが徐々に広がっていった。さらに将来,子どもたちの関係が,親たちの関係に微妙な変化をもたらすとしたらおもしろい。

この記事は, 岩波書店「科学」2003年5月号 Vol.73 No.5 連載ちびっこチンパンジー第17回『最も近くにいるのは誰か: 母と子の関係の発達的変化』の内容を転載したものです。