撮影:京都大学霊長類研究所/ Primate Research Institute, Kyoto University
図: 壁にはりつけた磁石をジャンプして取ろうとするクレオ.2歳.

クロエの子どものクレオが2歳のとき,わたしは実験室内の壁の鉄製の部分に黄色い磁石をはりつけてみた。すぐかたわらにはチンパンジーが入室に利用するはしごが取りつけられている(図1参照)。この様子をじっと見ていたクレオは,ためらうことなくぴょんとジャンプして磁石を取ろうとした(図1)。次に,前よりも高い位置に磁石をはりつけてみると,今度は,すっとはしごの上にのぼって磁石を取ってしまった。

行為の選択と身体成長

この様子を見て,わたしは,さまざまな高さに磁石をはりつけ,クレオがどのようにして磁石を取ろうとするかを調べてみた。磁石の取り方は色々である。ぺたんと座ったまま取る,中腰で取る,立って取る,ジャンプして取る,はしごの1段目にのぼって取る,などなど。このようなことを2歳と2歳半のときの2回にわたって行った。その結果をくわしくみてみると,同じ高さに磁石をはりつけても磁石の取り方が半年の間で違っていたのである。つまり,クレオの行動は,はりつけた磁石の高さだけでなく,自分の体の大きさによっても規定されているようだった。半年に一度の健康診断の際に行われている身体計測の結果をもとに,磁石の高さ,体の大きさと磁石の取り方の間の関係を調べてみると,磁石の高さがクレオが立ち上がって腕を伸ばして届く限界の高さにほぼ一致するところで,「立って取る」から「ジャンプして取る」に取り方が変化することがわかった。そしてこの関係は半年の間で変化することはなかったのである。

身体に依存した環境の認識

このように,自らの身体の構造などによって環境の認識が規定されるということは,どんな動物でもありうると思うが,あまり研究はされていない。人間では,有名な実験で,どれくらいの段差であれば上ることができるか,というものがある。人間の場合, 実際に上る前に「上ることができる」と判断する高さは足の長さと段差の間の比によってきれいに決まっている。また,成人ではこの判断された高さと,実際に上れる高さの間には大きなずれはない。その高さが「上れる」ことをアフォードしているのである(第8回参照)。

おそらく,2歳のチンパンジーも,行動をおこす前に自分の体と環境の間の関係をもとにどのようにして磁石を取るべきかを判断しているのだろう。このような,自らの身体に依存した環境の認識が,認識そのものの質的変化を進化の過程でもたらしたのかもしれないと考える研究者がいる。つまり,大型類人猿のように大きな体をもつ者が複雑で危険な環境の中を移動するときに,その環境の認識だけでなく自己の身体をも意識せざるを得なくなっていったのではないだろうか。そして自己の身体に目を向けるということが,自己認識へと進化していったのではないか。

「洞察」の背後にある身体性

さらに,実験室内の別の場所を使って同様の磁石取り実験を行ってみた。実験室の別の壁のある高さのところに磁石をはりつける。一定の高さまでは床からのジャンプなどでどうにか磁石を取ることができる。しかし,それ以上の高さにはりつけられるとそうはいかない。そのときクレオは,磁石のはりつけられている壁とは逆の方にあるはしごに目をやると,すっとのぼり始め,天井の格子をつたって磁石にたどり着いた。クレオは「迂回路」をたった1回で認識したのである。20世紀初頭にケーラーによって行われた有名な「洞察」実験で,おとなのチンパンジーが手の届かないところにあるバナナを取るために箱にのったり,棒を使ったりできたのも,彼らが自らの身体性をもとに環境を認識していたことがまず前提になっているのかもしれない。

そう思って,長さ20cmほどの熊手のおもちゃをクレオに渡して先の磁石取り実験を少し行ってみた。ケーラーのチンパンジーたちのように,熊手の長さの分だけ行動の切り替えの高さが変化するかもしれないと期待したからである。ところが,クレオはこちらの期待とはうらはらに,熊手を自分の身体を拡張するための「道具」として使うことはなく,だいじな「おもちゃ」として太もものところに挟んだままはしごをのぼっていった。おとなへの道は長く険しい。

みなそれぞれ

他の子どもはどうだろうか?パンの子どものパルでも2歳のときに同様の実験を行ってみた。クレオと同じように身体サイズと磁石の高さに応じて立って取るからジャンプして取るに切り替わるだろうか?ところが,パルはジャンプのかわりにはしごを1段余分にのぼって上から下に向かって手を伸ばすという取り方を頻繁に行った。身体構造や運動様式に樹上性霊長類の特徴を色濃く残しているチンパンジーの行動としては不思議ではない。おもしろいのは,身体性に制約された環境の認識にも個体差があるということだ。パルは,はしごの上から実験者に向かって飛び降りる遊びが大好きだ。クレオは怖がって絶対にそんなことはしない。「個性」というものがこんなところにも現れるのか,と思った。

壁にはりつけた磁石を取るという行動1つとってみても,その背後にあるチンパンジーの心の世界は奥が深い。

この記事は, 岩波書店「科学」2003年7月号 Vol.73 No.7 連載ちびっこチンパンジー第19回『跳ぶべきか跳ばざるべきか?』の内容を転載したものです。