動画:プチ初めての子育て: ピコをプチに戻すまで

突然の誕生

「あかんぼうが生まれてます!」第1報を電話で受けた。「誰が?」「何が起こった?」青天の霹靂,という言葉はこういうときのためにあるのだろう。すぐに駆けつけると,レイコの足元に,仰向けになって微動もしないチンパンジーの新生児がいた。2003年5月15日の朝のことである。

状況が解きほぐされてくると,母親はじつはレイコではなくてプチだということがわかった。父親はレオである。しばらくは子どもをもうけたくなかったので,プチにはホルモン剤を皮下に埋め込む処置で避妊をしていた。だから生理はないし,小太りでもあったので,プチの妊娠に気づかず出産に到ってしまったのだ。

プチは20年ほど前に二度出産を経験している。1982年3月にポポ,1983年12月にパンを,ゴンとの人工授精で産んだ。二度とも,出産の時に,ギャアーと凄まじい悲鳴をあげて逃げてしまった。子どもを抱くどころではなかった。しかたがないので,育児拒否された子どもを人工保育した,今回もおそらく前2回と同様だったのだろう。前夜9時頃に大きな騒ぎ声を聞いたという情報があるので,おそらくその頃に出産があって,母親プチが育児放棄したあかんぼうを,子育ての経験があるレイコが拾いあげたと推測された。

レイコはお乳が出ないので子育てできない。しかも新生児はぐったりしている。緊急措置として,レイコに麻酔してあかんぼうを回収した。出産からすでに約14時間経過していると推定した。へその緒はちぎれていた。体重1700g,平均的だ。ただし体は冷え切っていた。肛門から体温計を入れて直腸温を測ろうとしたが,32.5度より低くて測定不能。体表面の温度を赤外線体温計で測ると25度だった。保育器の温度を35度まであげ,24時間の監視体制で見守った(図1)。


図1 保育器の中で仰向けに寝るピコ. 生後8日目 撮影: 大橋岳

生後1週間目

母親に返す

経過から見て,常識的には人工保育しかありえない。しかし,2000年に始まった「ちびっこチンパンジー」たちの研究から深く思い知らされたことは,母親の存在の重要性である。親が子どもを24時間抱き続ける。子どもは,生後3年たった今でもまだお乳を吸っているし,夜は母親の腕に抱かれて眠っている。そうした親子の親密な絆に支えられて,親の世代が学んだ知識や技術を子どもたちが学んでいく。チンパンジーの子どもは,チンパンジーの母親に育てられるべきだ。

2000年出産の3組でも,母親の子育ては必ずしも順調ではなかった。アイだけはしっかり子どもを抱き上げた。しかしクロエとパンは,2人とも生まれた時から人工保育だったためか,あかんぼうを抱き上げなかった。ギャアという大きな悲鳴こそあげなかったが,パッと逃げて,床に産み落としてしまった。おそるおそる近づくだけで,抱き上げようとしない。そこで,人間が介助した。あかんぼうを近くに置いて,抱くように仕向ける。パンの場合,出産から約2時間後に,あかんぼうの方から偶然しがみついて,母親が抱くようになった。クロエは,当日は抱かなかった。一晩あかんぼうを人が預かって保育器で育て,翌日に母親に抱かせることに成功した。これもあかんぼうがしがみついたら,母親はふりほどくことはなく,抱くようになった。

こうした経験が蓄積していたので,一縷の望みがあると思った。ただ,プチの過去2回の出産の動転ぶりは育児拒否といっても最悪の部類といえる。また,あかんぼうの方の回復も待たねばならなかった。生後8日目に,飼育担当の熊﨑があかんぼうを抱いて,格子越しに対面させた。プチは落ち着いていて,人差し指をそっと伸ばして子どもに触れた。生後9日目, 午前と午後に2回,プレイルームにプチを招き入れ,そこにあかんぼうを抱いた熊﨑が入室した。あかんぼうをタオルにくるんで床に置く。プチは,おそるおそる近づいてきて覗きこんでは離れ,また近づいてきた。もうあと少しクロエやパンのときと同様に,あかんぼうが母親をつかまえればうまくいきそうだった。でも,プチの方が,どうしてもあとわずか数センチ近寄れないようだった。

生後10日目,熊﨑があかんぼうを抱いてプチの居室に入った。しばらく相互に毛づくろいした。頃合いを見計らって,熊﨑があかんぼうを片手に持ってひょいとプチの胸にあてがった。あかんぼうはしっかりとプチにしがみつく。プチの方は動きが止まり,一瞬凍ってしまったようだった。あかんぼうを抱けない。ふりほどきもしないが,しっかり抱くことができなかった。太い腕にしがみつかせたり,太ももと腹のあいだにはさんだり,反対向きに背中を内側に向けて抱く。だから,あかんぼうがルーティング(乳首を探して首を左右に振る行動)をしても乳首に届かない。じっと待ったがだめだった。熊﨑が入室して抱き方を矯正した。2つの哺乳瓶をもって,一方をプチに含ませて注意をそらせながら,もう一方をあかんぼうに与えて「補乳」した。こうした苦闘が毎日繰り返されて,ようやく生後20日目ころ,プチは正しく胸に抱いて授乳するようになった(図2)。


図2 母親プチの胸に抱きつくピコ. 生後17日目 撮影: 熊﨑清則

新たな試練

生後2ヵ月が経過して,プチはすっかり母親の顔になっている。あかんぼうはピコと名づけられた。母親が「小さい」を意味するフランス語なので,同じ頭文字Pで始まり,「もっと小さい」という意味で,ミリ,マイクロ,ナノ,ピコのピコを取った。じつはピコの試練はここで終わらない。話の続きは,また次回以降にしたい。

この記事は, 岩波書店「科学」2003年9月号 Vol.73 No.9 連載ちびっこチンパンジー第21回『ピコが生まれた』の内容を転載したものです。