撮影:京都大学霊長類研究所/ Primate Research Institute, Kyoto University
図: 実験室内でだだをこねるクレオ.

子どもたちもみな3歳をこえた。母親のうちアイとクロエには,「発情周期」が戻ってきた。チンパンジーはヒトと同様に生理が毎月あるのだが,その中間の「排卵」の時期には,性皮と呼ばれるおしりの部分がピンク色にぷくっと腫れあがり,見た目にもはっきりとわかる。この時期は,発情期と呼ぶにふさわしいさまざまな変化が行動に現れる。通常,妊娠・出産から3年程度は発情周期がなく,アイとクロエも生理は止まっていた。それが戻ってくるとともに,母子関係に微妙な葛藤を生み出しつつある。

発情期の再開

クロエに出産後はじめて発情周期が戻ってきたのは,子どものクレオが2歳9カ月のときだった。発情期のチンパンジーは,それ以外の時期とはまったく違う姿を見せる。あるものは非常に「ハイ」になり,だれかれかまわず挨拶行動をする。攻撃的になる場合もある。またあるものは逆に無気力な感じになり,実験室にやってきてもいつもの課題をしようとしなかったり,さらにはいくら名前を呼んでも放飼場からやってこようとしなかったりする。クロエの場合,出産前には特に後者の傾向が強かった。出産後はじめての発情のときは,以前とは違って,実験室にやってきて課題に取り組みはするのだが何か様子がおかしい。たとえば,私がいつものように実験前に与える果物や煮干がはいった「おやつ」の容器を差し出すと,その瞬間,容器ではなく私の手をむんずとつかんでいきなり噛みつこうとしたりする。また,実験室にやってきたとたん私の方に突進してきたこともあった。出産後の発情期のクロエは凶暴になるのである。何か非常にいらいらしているようだ。これはクロエに限ったことではない。程度の差こそあれ,アユムの母親のアイも発情期にはいらいらして攻撃的になるようになった。

ぐずる子ども

子どものクレオもこの母親クロエの豹変ぶりを肌で感じているようだ。母親が発情すると,クレオの方もそのふるまいががらりと変化する。それまでは,母親を先導してよろこびいさんで実験室までやってきていたのが,不満を表す「フ,フ,フ」という音声を発して立ち止まる。最悪の場合,実験室の通路の途中であおむけに寝転がって泣き出す。まるで人間の子どもがだだをこねているようだ。ようやく実験室にやってきてもむずかりはおさまらない。ことあるごとに口をとがらせてフフフと泣きながら母親の方に行って抱きつこうとする(図)。自分の課題を行っていた母親もとりあえずはクレオを抱きしめるのだが,すぐに突き離す。するとまた,フフフと泣くクレオ。それを見てまた抱きしめては突き離す母親。愛着と拒否の中で葛藤しているのがまざまざとわかる。見かねて,私が手を差し出してもクレオは目もくれない。

母親クロエが少し難しい課題に挑んでいるときは,正解するたびにその背中をなでながら「よーし」などと言って誉める。そうこうしていると,それまで集中して自分の課題をこなしていた子どものクレオが突然私のところにやってきて甘えだす。ひととおりかまってあげるともとに戻るのだが,私がまた母親を誉めるとクレオは課題が途中であっても私の方に飛び込んでくる。時には私と母親の間に割って入って邪魔をする。また,クレオとの物のやり取りのような普段なら決して怒らない場面で突然クレオが私に向かって怒り出したことがあった。その次の瞬間,母親が脱兎のごとく私に突進して噛みつこうとしたのである。そのため,私は,発情期になると,手を保護する軍手を3重にはめることもある。

本当の親離れ子離れの始まり?

野生のチンパンジーでも,発情期になるとおとなのオスはひっきりなしにメスに接近して気を引こうとする。メスの方にもクロエたちと同じ種類の行動の変化があらわれるようだ。さらに,オスと母親が交尾をしていると子どもがその間に割り込んで邪魔をするようになるという。母親クロエにかまっているときに子どものクレオが割り込んでくるのはこのような行動と同じ意味を持っているのだろう。人間でも第2子が生まれると第1子が甘えるようになる「赤ちゃんがえり」という現象がある。チンパンジーでも,それまで母親の愛着を一身に受けていた子どもが,母親をとりまく周囲の変化を敏感に察知して気を引こうとしているのかもしれない。ただ,母親が発情して情緒不安定になるのに呼応して子どもの方も情緒不安定になるのはどういうことだろう。もしかすると、子どもは母親の行動の変化だけでなく,母親の内的な状態までも認識しているのかもしれない。大阪大学の中道正之氏によると,ニホンザルにおける子ザルの独立(親離れ)は,母親からの授乳・抱擁の拒否や攻撃的行動を端緒とし,その後の「仲直り」を経てすすんでいくという。今回のクロエとクレオの様子を見ていると,母親による子に対する攻撃的な行動はないものの(私に対してはあるが),授乳・抱擁の拒否と受容のくりかえしは頻繁に見られる。チンパンジーの子どもは1歳ごろになると母親から離れてその社会的な広がりをどんどん大きくしていく。しかし,何かあったときに戻る場所(母親)がそこにはある。それが,3歳くらいになってくると,母親の側の生理的な変化にともなって,ニホンザルと同様,このような拒否と受容(仲直り)という過程をくりかえしながら,母親にべったり依存した「あかんぼう」から自立した「子ども」へと成長を遂げていくのかもしれない

チンパンジーから霊長類全般に通じる「親離れ子離れ」の流れを示したが,それぞれの動物なりに子離れ/親離れの様式があるだろう。チンパンジーでは4歳から5歳で完全に離乳するようになるといわれている。この先に起こるであろうさまざまな変化を丹念に追うことによって,チンパンジー特有の子離れ/親離れパターンをより詳細に浮き彫りにしていきたい。

この記事は, 岩波書店「科学」2003年11月号 Vol.73 No.11 連載ちびっこチンパンジー第23回『母子の葛藤』の内容を転載したものです。