第31回では,この春から,ちびっこチンパンジーたちが本格的に母親たちと同じ課題の勉強に取りかかっていることを紹介した。今回は,赤ちゃんの頃から続けていることをお話ししたい。その1つが定期的に母親から子どもを短時間分離しておこなっている健康診断・検査だ。赤ちゃんの頃は1カ月から3カ月に1回の割合だったが,1歳になってからは半年に1回のペースで検査をしている。

母親から子どもたちを分離する際,子どもをむんずとつかんで引き離したり,子どもを呼んで自主的に私たちの方に来てもらうというわけにはいかない。そこで,検査前にまず母親に麻酔をして眠ってもらい,その後子どもにも麻酔するという手順を取っている。当然のことだが,これら一連の手順は霊長類研究所の動物実験のガイドラインに沿って行われている。

良薬は腕に痛し?

とはいっても,おとなであれ子どもであれ,チンパンジーに注射を打つのは至難のわざである。ただし母親の方は,実験者や飼育係による根気強いトレーニングの結果,3個体中2個体では注射できるようになっている。問題は,残りの母親クロエである。クロエは私が主として担当してきたチンパンジーだ。

クロエに対してはじめて注射訓練を試みたときのことは強烈な印象として残っている。注射を見せて腕を出させると素直に従ってくれた。そして,少し針を刺して10秒間がまんさせる。まったく平気な様子だ。針を抜いて誉めてあげると,また腕を差し出す。まったく恐がる様子は見せない。その後,生理食塩水の筋肉注射,静脈からの採血訓練など順調にこなしてくれた。ところが,実際に麻酔薬を注射しようとするとうまくいかない。というのも,麻酔薬を筋肉注射すると,生理食塩水とは比べものにならない痛みを感じるらしいのだ。クロエの子どもクレオ(女の子)の3歳半健診のときまでは,母親に経口でドロペリドールという麻酔導入薬をあたえて,少しうつらうつらしたところで麻酔薬の注射を試みた。しかし,薬液が少し入っただけですっと腕を引き,私のもとから離れていく。結局導入薬によって眠りだしたところでようやく注射することができた。所要時間は1時間を優に超えている。母親に麻酔をかけてから,さらに子どもの麻酔が待っている。居室に閉じ込められ,母親の調子がいつもと違うということだけでも子どもにとっては異常な事態なのに,母親と私によるこの一連のどたぱたを見ていた子どもは極度の緊張状態になっている。このような状態では十分に麻酔が効いてくれない。これでは,その後の検査にも支障をきたす。そこで,今回のクレオ4歳健診の時には,大幅に方法を変えてみることにした。

吸入麻酔に挑戦

その方法は,まず笑気ガスとイソフルランによる吸入麻酔をして,効いたところで麻酔薬を注射するというものであった。娘のクレオの方は,ヨーグルトに混ぜた導入薬を経口で与えて眠りだしたところで麻酔薬を注射することにした。子どもと母親同時に麻酔導入薬を経口で与えて,同じ頃に眠るように薬の量を調整できればよいのだが,薬の効き方には年齢差だけでなく個体差もかなりあり,さらに緊張状態の程度にも依存するので,簡単にはいかない。吸入麻酔がうまくいけば,わずか十数分で麻酔が完了するはずだ。その日に備えて,まず料理などに使う漏斗をマスクがわりにして口にあてる予備訓練をした。クロエは問題なく口にそれをあててくれる。漏斗の先から私が息を吹き込んでも平気だ。次に,漏斗に水道用のホースをつけ,その先を実験ブースの外においた麻酔用のボンベが並ぶ機器に接続し,酸素のみを吸入させてみる。問題はないようだ。しかし,ふと気をゆるめた瞬間,クロエはブース内からホースをつかみ引きずり込んでしまった。おとなしく返してくれたものの,前途の多難さを感じた。

そして,4歳健診当日。私は実験ブースに入り,しばらくしてからクロエ・クレオ母子がやってきた。漏斗で酸素を吸入させるところまではうまくいった。ブースの外には同僚の田中正之さんが見守っているため,クロエもおいそれとはいたずらできない。そして問題の笑気ガスの吸入(図1)。

研究員の伊村知子さんがバルブを開ける。 その瞬間,クロエは漏斗から口を離してしりぞいてしまった。やはり何か刺激臭がするのだろうか。仕方がないので,外から田中さんが導入薬入りのヨーグルトを母子ともに与えた。娘の方はすぐにうつらうつらし始めた。いつでも麻酔は打てそうだ。しかし,母親の方はうつらうつらしつつも注射しようとすると私のそばを離れていく。

実験室外にいる獣医師の指示で,再度吸入麻酔に挑戦することになった。今度はイソフルランを使用する。今度もクロエはすぐにその場を離れた。まただめかと思った瞬間,クロエはうつぶせのまま床にへたり込んだ。イソフルランが効いたようだ。すかさず,私は麻酔薬を筋肉注射する。なんとかうまくいった。その後,そばでうつらうつらしている娘のクレオにも注射をした。こちらは何の問題もなく成功。しばらくして,クレオは検査のために実験ブースの外に運ばれていった。

クレオの検査そのものは順調だった。MRIによる脳構造や喉頭部分の観察,レントゲン写真による化骨の様子の観察,DEXAと呼ばれる装置による骨密度や体脂肪率の測定,生体計測,そして血液検査のための採血を滞りなく進めることができた。検査を担当した浜田穣さんによると,体重は16.3kgで体脂肪率は4%。男の子のアユムとそうかわりがない。永久歯も生えてきた。生まれた当初は母親の授乳拒否のために栄養が不十分で,毎日哺乳ビンで人工乳を補っていた頃がうそのようだ。体も順調に大きくなっている。

今回の試みで,吸入麻酔がまがりなりにも使えそうだということがわかった。今後は,母子ともに負担のない形で麻酔できるよう日々の訓練を進めていこうと思っている。翌日,母子ともに薬の入っていないヨーグルトを喜んで食べてくれた。前途は少し明るいかもしれない。

この記事は, 岩波書店「科学」2004年8月号 Vol.74 No.8 連載ちびっこチンパンジー第32回『注射がきらい!』の内容を転載したものです。