動画: アユム5歳

生まれた日

チンパンジー・アイの息子のアユムが,2005年4月24日で満5歳になった。この5年間を振り返ってみた。

出産の夜を思い出す。わらの敷き詰められた居室で,アイは腰をややかがめて四足でゆっくりと歩きながら,産道から頭を出したアユムに手を添えた。するりと全身が出てきたところをしっかりと受け止めて,胸に抱き上げた。まだへその緒でつながっている。アユムはぴくりともせず,四肢がだらりと垂れ下がっている。2年前の夏の悪夢がよみがえった。アイは死産を経験しているのだ。月が満ちるまでおなかのなかで成長していたのだが,生まれてきた子どもは動かなかった。生きていればアユムの兄にあたる。用意していた「アトム」という名前だけが残った。

今回,動かないあかんぼうを抱きかかえたままアイはうろうろとしている。様子をもっと近くで見ようと,わたしは部屋の中に入った。すると,アイが,抱いたアユムを引き寄せてその顔をなめ始めた。口に口をつけて吸っているように見える。だれに教えられてもいないのに,なんとか蘇生させようと努力しているようだ。たしかに,羊水が鼻やのどにつまって,あかんぼうが呼吸できないばあいがある。アイがアユムを抱きなおして逆さまにしたとき,アユムの口から「ぎゃふん」というような声がもれた。そして,四肢がもぞもぞと動き始めた。格子の向こう側で見守っていた獣医の松林清明さんと飼育係の熊﨑清則さんの,「あ,生きてる,生きてる」という声が聞こえた。

初めて抱いた日

アユムが生まれてから毎日,母子と同じ部屋で過ごした。母親はあかんぼうをしっかりと胸に抱いている。触ろうと手を伸ばすとそっと腕で囲い込んで触らせてくれない。ついには背中を向けてしまう。そこをよく頼み込んで,なんとか少しだけ触らせてもらった。

そんな日が続くうちに,生後3週間目のころ,試みに手話サインで「寝て」と言ってみた。床を手のひらでたたいたあと,そこを指さしながら,「寝て!」と声に出し,さらに両方の手のひらを合わせて,それを頬に当てるしぐさ(つまり,枕をあてて寝るかっこう)をすると,アイはアユムを抱きかかえたまま床に横になって寝てくれた。

一度も教えていないのに,身振りや音声から,こちらの意図を読み取るのだ。これで子どもを容易に検査できる。毎日が手探りという感じのなかで,チンパンジーの母親の協力を引き出しながら,チンパンジーの子どもの知性を検査する研究が始まった。「参与観察研究」と名づけた新しい研究手法である。その初期の研究成果は,『チンパンジーの認知と行動の発達』(友永・田中・松沢編,京都大学学術出版会,2003年)にまとめられているのでぜひ参照していただきたい。

アユムが10カ月になったころのことだ。母親のアイと対面して座っていると,母親の懐から離れてよちよちと歩き始めたアユムが,わたしのあぐらの中に座るようになった。その背中にそっと手を添える。アイは少し心配そうにみつめている。しばらく自由に遊ばせておくと,やがて母親のもとに戻った。毎日少しずつ時間が延びていき,アユムをしっかりと抱きしめられるようになった。

親子のきずな

わたしと同じころ,アイの幼なじみのペンデーサもアユムを抱けるようになった。次にそのおよそ半年後に,アキラが抱いた。アユムの父親である。1歳半ころからは,他の同年齢の子どもと一緒に遊ぶ姿が目立つようになった。ただし最初のうちは2人組だ。一緒に茂みをのぞきこんだり,同じような格好をして連れ立って歩いたりする。2歳ころからは3人組で,親から離れて子どもたちだけで遊ぶ。ひとしきり遊ぶと母親のもとに戻る。しばらくするとまた遊びに出る。こうして母親が安全基地になって外の世界を探索し,同じコミュニティのなかまと親しくなっていった。

アユムの誕生日に,古い写真を整理していたら,アイの小さいころの写真がでてきた(図1)。日付をみると,奇しくも同じ4月24日だった。ただし24年前である。指折り数えてみると,アイもちょうど4歳半のころだ。少し寂しげな表情がいかにもアイらしい。アユムと比べるとおとなびて見える。アイは動物商の手を経て1歳ころに霊長類研究所にやってきた。生まれは定かでない。西アフリカチンパンジーなので,ギニア湾北部に広がる熱帯林で生まれ,どういう事情か母親や仲間から引き離されて日本に連れてこられた。ワシントン条約(CITES)の批准以前の1970年代に,たくさんのチンパンジーが日本に連れてこられ,その大部分が肝炎の感染実験のために医学研究施設に送り込まれた。アイはたまたまそうした運命から外れてわたしたちのもとに来たのである。

同じような境遇のアキラとマリという同年代の遊び友だちはいたが,アイに母親はいなかった。写真を見て,アイはやっぱりひとりぼっちだったんだな,とあらためて思った。きっと寂しかったに違いない。かわいがって育てたつもりだが,親代わりにはほど遠かったのだと思う。この5年間,チンパンジーの親子のありさまを日々つぶさに見てきた。いちばん印象深いのは親子のきずなの深さだ。アユムは今もときどき母親の乳首を吸っている。夜は母親の傍らで眠る。チンパンジーの子どもにとって,母親というのは空気や水と同じくらい必要なものだ。それが無くては生きていけない。

野生チンパンジーの出産間隔は平均5~6年だ。アユムも本来ならそろそろ弟妹ができても不思議でない年頃になった。ちょうど1年前からアラビア数字の勉強を始めた。日々着実に進歩する。数字を記憶する実験では,ついに母親に追いつき,すり抜けるように追い越していった。モニター画面に出てくる5~6個の数字を,アイよりも,そして人間のおとなたちよりも瞬時に正確に記憶できる。こうした知性がさらにどのように伸びてゆくのか。そのとき母親やなかまとのきずなはどう変わっていくのか。これからもアユムたちの成長を見守っていきたい。

図: 母親のアイの小さいころの写真 1981年4月24日
この記事は, 岩波書店「科学」2005年6月号 Vol.75 No.6 連載ちびっこチンパンジー第42回『アユム5歳』の内容を転載したものです。