8個の数字を一瞬で記憶する

アイの息子のアユムが,2004年の4月から「アラビア数字の系列学習」を始めた。1から9までのどのような数字の組み合わせでも,小さい順に選べるようになった。そこで,これを利用して,数字の記憶容量を調べている。たとえば2と4と5と9が画面にあらわれ,2に触れるとそれが消える。それと同時に,画面に残った4と5と9が白く塗りつぶされた四角形に置き換わる。あとは,四角形に置き換わる前の,数字の小さい順に白い四角形に触れれば正解だ。

この課題は人間のおとなでもけっこうむずかしい。最初の数字を選ぶ前に,どの数字が画面のどの位置にあるかを記憶していなければならないからだ。しかしアユムは,数字が四角形に置き換わらない単純な課題と同じくらいよくできる。数字を5個に増やしても,6個でも7個でもできる(図1)。現在,8個の数字に挑戦しはじめた。

そして今や,母親のアイよりもアユムのほうがよくできることが明らかになった。7個の数字でも0.8秒程度で記憶して正解率は80%を超える。人間のおとなでもとてもかなわないスピードと正確さだ。画面を一瞬見ただけで,どこにどの数字があるか記憶できるようになったと考えられる。

サバンに似ている

このチンパンジーの瞬時記憶の能力は,「サバン症候群」と呼ばれる一群の人々の能力を思い出させる。1988年の映画「レインマン」で,ダステイン・ホフマンが演じたジョゼフと呼ばれる男の事例を思い出す方も多いだろう。ジョゼフは床に散らばったマッチ棒の数を一瞬で言い当てる。もちろん,一口にサバンといっても人それぞれだ。共通な特徴があるとすれば,それは通常では考えられない記憶能力だろう。一瞬見た景色を克明に絵に描ける。一度聞いただけの旋律をみごとに再現できる。そうした,一般的な人間のおとなには見出しがたい,突出した記憶能力がある。

そうした能力の本態を考えるとき,ローナ・セルフが報告したナデイアの事例が興味深い。ナディアが2歳になるころまでに,母親は子どもの異常に気づいた。母親が笑いかけてもあやしても応えない。そもそも目があわない。ことばもほとんどしゃべれない。ナディアは重度知的障害児のための学校に通い,やがて自閉症であることがわかった。しかし,彼女の絵の記録を見てみると,驚くべき精密さで描かれている。おとなでもそこまで細密には再現できないできばえだ。治療期間中に,ナデイアは言語を発達させるための訓練を受けた。興味深いことに,彼女の言語能力が改善されると,絵が写実的ではなくなり,細部まで再現する特殊な描画能力は衰退したという。

ナデイアの事例は,獲得と喪失のトレードオフなのかもしれない。ニコラス・ハンフリーが『喪失と獲得』という著書で指摘しているように,「ことばという機能を獲得したために,詳細に記憶する能力を喪失した」と考えられる。シンボルとして記憶してしまえば,物事の枝葉までの実際を記憶しなくてすむ。アユムの示したような瞬時記憶の才能は,じつはヒトとチンパンジーの共通祖先に由来するものかもしれない。一瞬で見たものをしっかりと記憶に留める。そうした能力は,生きていくうえでとても重要だっただろう。

実際にナデイアの絵は,見た通りに細部を再現している。一般に,人間の子どもの描画行動の発達をみると,彼らは見たままを描いているのではない。いったん見たものを彼らなりにそしゃくして,馬なら馬として表象しシンボル化したものを,つたないながらも描いているのだ。

親子関係

アユムは,アイが数字を記憶する課題をこなす様子をあかんぼうのときから毎日のように見てきた。4歳を迎えた日からアユム用のコンピュータを用意したら,何のためらいもなく,母親と同じように課題に向かうようになった。母親と同じことをしたい,という強い欲求がこうした学習の基盤にあると考えられる。

チンパンジーの子どもを見ていて違和感があるのは,その親子関係だ。5歳になってもまだ乳を吸っている。正確には,乳首に吸い付いている。乳はもう出ないはずだが,何かあると乳首に吸い付く。そうした強固な関係を基盤に,子どもは親のすることを見てまねる。何を,だれから,いつ,どのように学ぶのか。そもそも学習は,情動や愛着と強く結びついているのだろう。

じつは,現代の工業技術社会におけるヒトの親子関係のほうが変わっているのかもしれない。生後半年もへずに乳離れをさせる。ヒトも本来はもっと乳首にすがっているものなのかもしれない。これまで,「ヒトとチンパンジーの双方に共通する特性は,両者の共通祖先に由来する」と考えてきた。逆にいうと,「ヒトだけに見られる特性は,ヒトがその進化の過程で獲得した」「チンパンジーに見られる特性は,チンパンジーがその進化の過程で獲得した」,と考えてきた。しかし,喪失に着目した別のシナリオもあるだろう。

いまはチンパンジーだけに見られる特性も,じつはヒトとチンパンジーの共通祖先に由来する。何かを得た代償として,ヒトはその特性を進化の過程で喪失した。そういうシナリオだ。一瞬で8個の数字を記憶するアユム,何かあるとすぐに乳首に吸い付くアユム。そうした姿を日々見ていて,ヒトの進化のシナリオを考えさせられた。

この記事は, 岩波書店「科学」2005年11月号 Vol.75 No.11 連載ちびっこチンパンジー第47回『獲得と喪失 -ヒトの進化のシナリオ』の内容を転載したものです。