抽象表現主義

チンパンジーが描いた絵が,2005年ロンドンの競売会社で,1万4000ポンド(約290万円)で落札された。人類学者デズモンド・モリスのパートナー,コンゴの作品だ。50年ほど前,コンゴはテンペラで描いた作品を何点も残しており,ピカソがその1枚を「抽象表現主義派」と称し,アトリエに飾っていたという逸話もある。

チンパンジーが描く抽象画 — 見方によれば「なぐりがき」だ。しかしなぐりがきにも複雑な知性が必要とされる(第38回参照)。ヒトの子どももはじめから描くことはできない。まず,たいていはペンを口に入れたり,ポイッと投げたりする。ペンは紙の上で動かすものだと気づいても,正しい向きで紙につけるのが難しい。描くためには,ペン先を紙につけると跡が残ること,さらにペンをつけたまま動かすと線になることを理解しなくてはならない。

霊長類研究所のチンパンジーたちもお絵かきができる。基本的に「描く」という行為に対する報酬は与えていない。リンゴをもらえるから描くのでなく,描くという行為自体におもしろさがあるようだ。手の動きが目に見える軌跡として残るのを楽しむかのように,時にとても熱心に筆を動かす。ただし飽きるのも早い。描き方はそれぞれ個性的で,さらさらと迷路のような曲線を広げるアイの絵と,細かい線を丁寧に並べるパンの絵は,まるで違う画風に見える。ただ,チンパンジーたちは「抽象表現主義」を貫いているようで,明らかに何を描いたかが分かる具象画の例は,今のところない。チンパンジーは,やみくもに筆を動かしてなぐりがきをするだけなのだろうか。

Credit: Aya Saito
図: 手本として描かれた平行な縦線の一部をなぞるポポ(上)とその作品(下)

線をなぞる

ヒトの子どもの場合,1歳を過ぎるころになぐりがきができるようになる。やがて,やみくもに動かしていた手の動きを調整し,長さや向きのある線分,うずまきや円を描きだす。そこまでくれば,なにか具体的なものを表現しはじめるまであと一息だ。

そこでヒトの子どもの発達検査を応用した課題をチンパンジーに試みることにした。1枚目は自由に描いてもらう。2枚目からは,向かいに座った「先生」が先に手本として図形を描き,同じ紙にまねして描いてもらう。図形は横線,縦線,円,十字,正方形の5つで,この順に描くのが難しい。ヒトでは,横線の模倣ができるのが2歳半,正方形は4歳半ごろとされている。

課題に挑戦したチンパンジーは6人。「先生」がお手本を描くのを見つめたあと,それぞれ個性的に描いた。1枚目と変わらず手本を無視して自由に描く子もいた。しかし,ほとんどが手本に反応して描き方を変え,とくにポポは,手本の線を1本ずつ確かめるように細かく丁寧に塗りつぶし,線の一部をスーツとなぞった(図1)。余白はたくさんあるのに,紙の端に描かれた手本の上をわざわざなぞる。ほかのチンパンジーも,正方形の角に点を集中したり,円のなかに往復線を重ねたり,平行線の隙間やその周りを縫うように線を走らせたりした。つまりチンパンジーは,まねして形を描くことはなかったが,見たものに対応して意図的に手の動きを調整して描くことはできる。

同じ方法でヒトの子どもにも描いてもらうと、1~2歳児の絵がチンパンジーによく似ている1。1歳になったばかりの子は手本を無視して描き,もう少し大きい子は,手本に反応して正方形の一部に印をつけたり,円の中に往復線を重ねてきたりした。しかし,2歳半を過ぎるとその違いを実感させられる。手本をまねして縦線や円を描けるようになり,言葉も出てくる。自由に描いてもらえば,大きな円の中に小さな円を2つ描き,「かお」と言ったりする。

進化の歴史をたどる

はじめに絵を描いたのはだれか。現存する最古の絵は,3万7000年前のショーヴェ洞窟壁画だ。有名なラスコー,アルタミラより1万年以上古い。暗い洞窟の奥深くに残された動物の絵は驚くほどリアルで,しかも心に迫るものがある。この後期石器時代(5万年前以降)は,ヒトの認知や行動の変化が革命的に起こったとされていた。骨格器や彫刻,アクセサリー,洗練された機能別の石器などが,数多く見つかっている。しかし,近年アフリカで,さらに古い中期石器時代,7万5000年前の貝殻のネックレスと,幾何学模様が刻まれた赤色オーカー片(顔料ベンガラの塊)が見つかった。創造性の起源を探るには,もう少し時代をさかのぼる必要がありそうだ。

500万年前,ヒトとチンパンジーは同じ進化の道筋を歩んでいた。そのチンパンジーも画材を与えればお絵かきをする。なぐりがきではあるが,手の動きを調整して線をなぞるという,形を描く能力の萌芽のようなものも見えてきた。ヒトはなぜ絵を描くのか,なにかを描くとはどういうことか。 チンパンジーの行動や認知的な特性から何がうかがえるだろうか。

手本を丁寧になぞったポポ(23歳女性)—実は,数字や漢字の勉強が苦手だ。そんなポポが,だれに教えられるわけでもなく線を器用になぞった。算数や国語が得意,美術が得意,ひとそれぞれ違うからおもしろい。

*1 滋賀県立大学竹下秀子先生のご協力のもと,子育ち応援ラボ「うみかぜ」の参加者の方々にご協力いただいた

この記事は, 岩波書店「科学」2006年5月号 Vol.76 No.5 連載ちびっこチンパンジー第53回『絵を描くということ』の内容を転載したものです。