乳離れは4~5歳

アイの息子アユムが7歳になった。アユムがちょうど3歳になるころ母親のアイに生理周期が戻り,毎月の排卵の時期に尻が再び腫れ始めた。しかし,アユムは4歳でもまだ毎日乳を吸っていた。チンパンジーの離乳は遅い。乳離れは4~5歳ごろというのが妥当だろう。その後も,不安にかられると乳首に吸いついていた。乳首を求めなくなったのは6歳になってからである。同年生まれのパルはまだ,ときどき母親の乳首に吸いついている。明らかに乳は出ていない。精神的な母子のきずながとても重要なのだろう(図1)。

20年近く前,アフリカの野生チンパンジー,7歳の男の子フォアフが母親の乳首を吸っていたのを思い出した。昼寝用の樹上のベッドにもぐりこみ,母親の胸にそっと唇を寄せる。弟妹がいない場合,母親と寄り添う期間が長くなるようだ。


図1: アユム満2歳。定期健康診断のために母親と離されて心細げにしている。

テレビの子どもたち

飼育下では,出産の2例に1例という高頻度で育児放棄になる。程度はさまざまだ。産むと同時にギャッと叫んで飛びのく。産み落とした子どもをのぞきこむが抱けない。頭を下にして抱く。腹と太ももの間にはさむ。これでは子どもが乳首を吸えない。見かねた獣医師や飼育員が子どもを取り上げて人工保育する。そうして育った子どもは,また育児放棄する親になる。

過去30年間,霊長類研究所で5人の母親に合計7例の出産をみた。そのうち最初の4例では母親育児が2例,育児放棄が2例だった。最近の3例では「介助保育」に成功した。3例とも母親は子を産み落とし,抱き上げない。そこで,母親と親しい者が部屋に入って子どもを抱くようにしむけた。子どもは,腕でしがみつき,手で握りしめ,唇で乳首を探し,口に含むと吸うという一連の生得的な反射をもって生まれてくる。そこで,母親が落ち着いたところを見計らってその胸に子どもをつける。子どもを抱けない母親も,いったん子どもがしがみつくと,必ず抱くようになる。

テレビの動物番組やコマーシャルに出てくるチンパンジーは,小さな子どもだ。せいぜい7歳くらいまでである。本来はまだ親と一緒に過ごしている時期だ。しかし,母親が育児放棄したか,2歳ころに母親から人間が取り上げたかして親から引き離されている。小さいほうがかわいく,見栄えがして,人に慣れやすい,という理由からだ。

日本には2007年5月現在55施設に348人のチンパンジーがいる。チンパンジーの子どもを,テレビ番組などエンターテインメントの商売で使うのは廃止すべきだろう。主な理由は次の3つだ。

(1)チンパンジーの子どもには母親が必要だ。繁殖年齢に達していないからこそ,親や仲間と一緒に過ごす必要がある。でないと,親代わりをつとめる人間の顔色ばかりをうかがうようになる。人間の環境で育ったチンパンジーは,おとなになっても彼ら同士のコミュニケーションがうまくなく,セックスや子育てができなくなる恐れが高い。

(2)テレビ番組はチンパンジーの真の姿を正しく伝えていない。直立姿勢を長く取らせたり,口をパクパク開けさせたり,服を着せたり,本来のチンパンジーはけっしてしないことをさせて,擬人化した行動で視聴者の笑いを誘っている。

(3)彼らはワシントン条約や種の保存法で定められた絶滅危倶種である。そもそも学術研究か繁殖以外の目的に供することはできない。なお,日本の法令上,彼らは「ヒト科チンパンジー」である。

チンパンジーの子どもには母親が不可欠だ。親や仲間と過ごし,女性は8歳ころに初潮を迎える。本来の姿である野生の群れと同様に,父系社会の群れ作りをするのがよい。女性は10歳前後に別の動物園の群れに移動し,男性はそのまま残る。

人間は「子どもたち」をみんなで育てる

チンパンジーの子育ての特徴の第1は,霊長類に普遍的な「しがみつく」「抱きしめる」という親子関係だ。親が子どもをずっと抱き続けている。第2に,子育ての期間が長く,1人の子どもだけをだいじに育て,育て上げてから次の子を産む。第3に,基本的には母親だけが子どもを育て,ほかの仲間の関与が小さい。

逆に人間の子育ての特徴が見えてきた。(1)生まれたときから母親と体が離れている。(2)子育ての期間は長いが,比較的短い間隔でまとめて「子どもたち」を産む。(3)父親や祖父母やへルパーなど母親以外の仲間が関与して子育てする。

チンパンジーも人間も,生まれてからおとなになるまでに脳が約3.2倍の重さになる。その間にさまざまなことを親の世代から学ぶ。ただし,人間の学び方はあおむけの姿勢から始まる点でユニークだ。チンパンジーのあかんぼうをあおむけにすると,手足を中空に伸ばしてゆっくりともがく。しがみつこうとしているのだ。人間はあおむけでじっとしていられる。人間のあかんぼうは脂肪にくるまれ体脂肪率は20%を超えるという点も見逃せない。チンパンジーでは4~5%しかない。人間のあかんぼうは,母親が抱き続けず,地面に下ろされても生きていけるよう体温が保持されている。そして,あおむけにされたあかんぼうに母親だけでなく父親や祖父母,兄姉,叔母がのぞきこみ,微笑みかけ,手を振り,声をかける。人間の子どもは,親や仲間との対面のコミュニケーションで育まれる。

チンパンジーに年子はない。野生チンパンジーの過去46年間の出産534例を集めた最新の調査では,出産間隔は5年に1度である。寿命は最長50歳で死ぬ間際まで産む。生涯に6人だ。でも5歳以下で死ぬ乳幼児死亡率が約3割と高い。

子育ての期間は人間ではチンパンジーよりさらに長くかかるはずだ。産める年齢を考えると,1人ずつ育て上げていては間に合わない。そこで,人間はよく双生児を産み,年子や2~3年おきという短期間で子どもを産む。人間の双子は64例に1例の割合だという。チンパンジーやゴリラやオランウータンで,双子はきわめてめずらしい。

人間には,伴侶がいて,孫の世代を育てるお年寄りがいる。母親以外の仲間が助けて,「子どもたち」をみんなで一緒に育てていく。そうした人間の子育てに固有な特徴が見えてきた。

この記事は, 岩波書店「科学」2007年6月号 Vol.77 No.6 連載ちびっこチンパンジー第66回『人間とチンパンジーの子育ての違い』の内容を転載したものです。