もう7歳

2007年に入って半年。6月はチンパンジー,クレオの誕生月だった。8月になると一番若いパルも7歳になる。7年という歳月は思った以上に長い。彼らの出生時に大学院に入学したばかりだった学生たちは,いまではポスドクとして自立している。ちびっこチンパンジーたちも,そろそろ「ちびっこ」ではなくなってきた。でも,まだ実験室には親子連れでやってくる。

これまで,母子それぞれを「独り立ち」させる試みが続けられてきた。しかし親離れ・子離れは遅々として進まなかった。1年ほど前にスタッフが集まって,どうすれば親子の独立をうながすことができるかを議論したことがある。野生のチンパンジーの出産間隔は約4~5年である。弟や妹が生まれると,自然に親離れする。しかし,限られた空間しかない私たちの研究施設では,長期的な視野に立った繁殖管理計画が必要だ。今はまだ,次の子どもをつくる時期ではない。だとすると,こちらが積極的に手を貸して,親と子の独立をサポートするしかない。

ひとりぼっちの実験

母子そろって実験室にやってくると,データが2倍収集できる。研究の効率性を考えるとこの方がよいのかもしれない。しかし,それはチンパンジーにとっての自然な発達ではない。だから一念発起して,同僚の田中さんやポスドクの伊村さんとともに,日々の実験場面で母子を分離する試みを,私もこの春から開始した。現在私たちの使用している実験室では,チンパンジーの側は分断されているものの,人間の作業スペースは隣の田中さんの実験室とつながっている。チンパンジーたちはそれぞれのブースで実験を行っているが,ときどきヒトの側に置かれたモニターをのぞきこんで隣の様子をうかがったりする。隣の実験室で誰が実験しているのかが気になるようだ。

ある春の日,実験室から廊下に出るためのチンパンジー用の通路を開放し,2つの実験室の間を自由に行き来できるようにした。すると,田中さんの実験室にいたパンとパルのうち,実験を終えて暇そうにしていたパルが,おそるおそる隣の私たちの実験室にひとりでやってきた。へっぴり腰だったが,強い口調で指示すると,ちょこんといつもの場所に座り,伊村さんの用意した実験に取り組み始めた。はじめてのひとりぼっちでの実験だ。うまくいきそうな予感。

が,少し時間がたったところで,室外の様子をチェックしようと私が廊下に出て姿を消すと,パルは脱兎のごとく天井通路に駆け上がり,母親のもとに舞い戻った。田中さんは慣れれば大丈夫と言うが,私は前途の多難さを感じ,がっくりした。しかし正しかったのは田中さんの方だった。パルはどんどんひとりぼっちに慣れていき,今では通路のすべてのドアを完全に閉めてひとりきりにしても,さほど気にしなくなった。

アイとアユムでもうまくいった。隣の実験室にお母さんがいるのがわかっている限り,姿が見えなくても大丈夫だ。ただし,アユムを残してアイだけを運動場に戻そうとすると,スライドドアの操作音などからすべてを察知して,泣きわめき,ブース内をぐるぐる回り,おもらしをし,誰もいない隣の部屋を映すモニターを凝視する。そこで,モニターに前日のアイとアユムの実験のビデオを再生してみた。その上で,また強く指示をして座らせる。するとアユムはパニックになりつつも最後まで実験をやり終えた(図1)。この様子を見る限り,子どもだけを運動場から呼んでこられるようになるのは,まだまだ先かもしれない。

しかし,一方で状況が刻々と変化しているのも強く感じる。最近はアイがアユムを置いてひとりで実験室にやってくることがよくある。以前はアユムが運動場で遊びほうけていると,アイはずっとアユムを待ちつづけていたものだった。それが最近ではアユムを置き去りにしても平気になってきたのだ。アユムの方も仲間がいる限り大丈夫だ。お母さんが実験している間アユムはリーダーのアキラのあとをついて回ったりして過ごしている。日に日に男性としての自覚がわいてくるかのようである。7年という歳月はチンパンジーにとっても長いのだ。

チンパンジーそれぞれ

アユムもパルも,少しずつだがほんとうに自立し始めている。では,残りのクロエとクレオの母子はどうだろうか。この母子は,育児拒否に始まりさまざまなトラブルを抱えながら成長してきた。ほかの2母子に比べて母子間の絆がきわめて強い。このような特殊な母子関係が親子の独立の難しさを助長しているようだ。居室から外に出るときなども,別々にされるのがいやなのか,クレオは入り口のところに半身を預け,ときに不安を表す表情で母親が動くのを待っている。実験室での分離についても,田中さんを中心に行ってはいるが,まだうまくはいっていない。

それでも, 母親の様子がはっきり見える実験室や,居室などではいろいろな形で分離の試みが行われており,少しずつだが実を結び始めている。道は長いが思ったほど険しくはないかもしれない。

撮影: 田中正之



図1: ひとりで実験に取り組むアユム.
中腰になったり,うろうろしたり,天井に上ったりと落ち着きがないものの,用意した課題はひととおり行ってくれる.
この記事は, 岩波書店「科学」2007年8月号 Vol.77 No.8 連載ちびっこチンパンジー第68回『今度こそ親離れの季節』の内容を転載したものです。