図: 有明海をはさんで雲仙普賢岳を遠望する熊本サンクチュアリの施設

チンパンジーのサンクチュアリ

有明海をはさんで島原の雲仙普賢岳と対峙する熊本県宇土半島に,チンパンジーのサンクチュアリが2007年4月に発足した。8月から,その運営が京都大学霊長類研究所寄附講座「福祉長寿研究部門」に委託された。チンパンジー・サンクチュアリ・宇土(CSU)である(註1)。サンクチュアリとは,野生動物については「保護区」の意味であり,飼育動物で言えば「保護施設」を意味する。かつて医学感染実験に使われたチンパンジーに余生を安寧に過ごさせるための施設である。敷地の広さ約3.3ヘクタール。東京ドームのグラウンド3つ分の広さがある。そのサンクチュアリに2007年10月現在78人のチンパンジーが暮らしている(註2)。半数は,アフリカから連れてこられた。残りの半数は,その子孫たちである。下は8歳,最年長は37歳である。日本がワシントン条約を批准したのは1980年だ。それまではチンパンジーを合法的に輸入できた。とくに1970年代には,約150人が輸入されたと推定されている。主として肝炎の感染実験に使われた。当時,B型肝炎ワクチン開発が主な目的だった。1970年代末には,非A非B型肝炎と呼ばれる原因不明の肝炎の研究に移行した。1989年になって,アメリカでのチンパンジーの感染実験から,その正体がC型肝炎ウイルスによるものだと特定された。

ヒトとチンパンジーの遺伝的な違いは,DNAの塩基配列で約1.23%しかない。そのため,ほぼすべての病気が両者で共通だ。病気が双方向に伝染するアフリカでは,エボラ出血熱で死んだチンパンジーに触れた村人が発病した。エイズやC型肝炎などは,人間とチンパンジーの共通感染症だが,サルやネズミでは発症しない。人間に似ているがゆえに感染実験の対象になってしまったことは,チンパンジーにとって気の毒なことだ。

医学感染実験を全面的停止に

最も多いときに,117人のチンパンジーが,この宇土にある製薬会社の研究施設にいた。1990年代後半に,C型肝炎研究に加え,遺伝子治療の研究,マラリアの研究,排卵誘発剤を使って卵子を取り出しES細胞を作る研究などがおこなわれようとしていた。そうした侵襲度の高い,すなわち不可逆的なダメージを与える可能性のある実験でチンパンジーを「消費」するのはよくない。なぜならチンパンジーは絶滅危倶種だからである。彼らを失えば,人間の本性の理解を深める研究や教育の機会も奪われる。だれもパンダやコウノトリをこうした実験の対象にはしないだろう。

チンパンジーは実験動物ではない。本来,野生の動物である。チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンは,「ヒト科」に属する動物であり,絶滅危倶種だ。そこで1998年に,研究者や動物園関係者や自然保護活動家など有志が集まって,SAGA(サガ)を結成した(註3)。SAGAは, 「アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い」の英文略称である。

SAGAの年次集会は2007年で10回目を迎える。毎年ジェーン・グドールさんが参加してくださる。そうした求心力があって,地道な活動が続いている。当該の製薬会社の方々にも参加を呼びかけ,関係者が一堂に会して,チンパンジーの医学感染実験の停止と,飼育施設のサンクチュアリ化について話し合ってきた。

最初の呼びかけから8年が経過し,2006年秋に,ようやく医学感染実験は全面的に停止された。そしてチンパンジーたちが残った。うち17人は,C型肝炎のキャリアである。70年代に彼らを輸入した研究者たちの多くは存命だ。輸入の資金は主として現在の厚生労働省の科学研究費である。だれがこのチンパンジーたちの余生の面倒をみるべきなのだろうか。しかし,責任を押しつけ,だれかを糾弾しても,事態はけっしてよくならない。グドールさんがつねづね言っていることだが,「怒り」によって物事を正すことはできない。怒りは,反発とさらなる怒りを増幅させる。

将来に向けて

2007年10月現在,日本には57の施設に347人のチンパンジーがいる(註4)。それでも,将来にわたって日本でチンパンジーを安定的に維持できるかは不透明だ。近い将来,高齢化を迎え,緩やかに人口が減少していく可能性がある。CSUの78人は,日本全体の約4分の1にあたる。彼らの余生の安寧を図るとともに,日本の動物園の現状を変えるのが妥当だ。現状でチンパンジーが1人だけの動物園が9園ある。2人しかいないところが11園ある。全体の約半数の動物園で,3人以下のチンパンジーしかいない。こうした施設で,複数のチンパンジーからなる群れ作りを進める必要がある。飼育の原則は2つある。(1)群れで飼育する。適正規模は1群10~20人くらいの3世代だ(2)野生と同様に父系社会を守る。つまり男性は群れに残り,思春期になった女性に群れ間を移動してもらう。

C型肝炎については,現在はインターフェロンとリバビリンの併用療法が主流だが,やがてさらに優れた治療薬も開発されるだろう。ウイルスを駆除できたら,彼らにも引き取り手が現れるかもしれない。チンパンジーの寿命は飼育下では50年にもおよぶ。持続する意志をもって対処できれば,遺伝的な多様性を保持しながら国内でチンパンジーを存続させることが可能だろう。

サンクチュアリも,大学の一部として位置づけるなら,その使命は教育と研究と社会貢献にある。貴重なチンパンジーを対象に,彼らの福祉や長寿命に直接結びつく研究をしたい。「野生への窓」として,学生や一般市民を対象とした環境教育の場として活用していきたい。縁あって日本で暮らすことになったチンパンジーたちを知って,アメリカでまだ感染実験の対象になっている推定1500人の同胞,アフリカで森林伐採・密猟・伝染病のためにその数を減らしている約18万7000人の同胞に,思いを馳せていただければ幸いである。

註1: 2011年8月1日「チンパンジー・サンクチュアリ・宇土」は「京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリ」として生まれ変わりました。 有明海をはさんで雲仙普賢岳を遠望する熊本サンクチュアリの施設

註2: 2013年7月現在では59人。

註3:SAGA(Support for African/Asian Great Apes) 詳しくはSAGAのHP(http://www.saga-jp.org/)をご覧ください。

註4: 最新の人口はGAIN 大型類人猿情報ネットーワークHPで、ご確認ください。
この記事は, 岩波書店「科学」2007年10月号 Vol.77 No.10 連載ちびっこチンパンジー第70回『チンパンジー・サンクチュアリ・宇土』の内容を転載したものです。