Credit: Primate Research Institute, Kyoto University
図: 記憶課題をするアユム

数字の直観像記憶

チンパンジーの子どもは,直観像記憶(eidetic imagery)と呼ばれる特殊な記憶能力をもつことがわかった。チンパンジーの子どものほうが人間のおとなよりも,ある種の記憶課題において優れていることが実証されたのである。井上紗奈さんとの共同研究である(1)

チンパンジーの子どもは一瞬見ただけで,どの数字が,モニター画面のどこに出てきたかを記憶できることがわかった。いちばん成績のよかったアユムは,1から9までの9個の数字を,約0.7秒でほぼ正確に記憶できた。人間のおとな(大学生)の場合,こうした速さや正確さではできなかった。ほかの2人の子ども(クレオとパル)も,正答率こそ人間のおとなの範囲内だったが,より速くできる。

新たに考案した「時間制限課題」という記憶課題で,チンパンジーの子どもとチンパンジーのおとなとヒトのおとなの成績を,同じ場所,同じ装置,同じ手続きで,厳密に比較してみた。この課題では,5つの数字が一瞬だけ画面に出てくる。提示時間は,650,450,210ミリ秒の3条件である。最短の210ミリ秒ではサッケードと呼ばれる眼球運動が起こらない時間だ。つまり,眼を動かして数字の位置を確認することはできない。

人間のおとながこの課題をすると,提示時間が短くなるにつれて成績(正答率)が下がった。チンパンジーのおとな(アイ)の場合もそうだった。ところが,チンパンジーの子ども(アユム)では,提示時間に関係なく高い正答率を示した最短の210ミリ秒の条件で比較すると,人間のおとなはだれひとりとして,アユムにかなわなかった。

こうした一瞬見ただけの細部の記憶が10秒間以上も続くこともわかった。問題が出た直後に外で騒ぎがあって,そちらに気をとられてしまったのだが,10秒後でもアユムは正解したのだ。

チンパンジーが直観像記憶をもつ利点

「人間はチンパンジーよりも賢い」「おとなは子どもよりも賢い」という,一般の人びとがもつ2つの素朴な信念を揺るがす発見だ。この現象は,人間の子どもで知られている「直観像記憶」にきわめて似ている。人間でも,一瞬見ただけの複雑なパタンの細部を正確に記憶できる子どもたちがごくまれにいる。年齢が上がるとその能力が減衰することもわかっている。

チンパンジーの子どもはすべて直観像記憶をもっている。ということは,種全体としてみて,チンパンジーのほうが人間よりも,瞬時に細部を記憶する能力において優れていると考えられる。では,かれらの自然の暮らしの中で,こうした能力はどのような適応的な意義をもっているのだろう。野生チンパンジーを見続けてきた経験から,次の2つの場面を例示したい。

第1の例。チンパンジーがイチジクの木に到着したとしよう。緑でなく赤く熟した実を見つけ出し,そこに到る枝を見つけなくてはならない。イチジクは大木なので,目的の枝を見誤ると,中央の幹までいったん戻ってかなりの遠回りを強いられる。それだけではない。先着のチンパンジーがいるとしよう。どの枝にだれがいるか,それを見分けることもたいせつだ。なぜなら,順位の高いおとなの男性の近くでは,おちおち実を食べてなどいられない。イチジクの木を見上げて,実の熟れ具合とその位置,先着者がだれで,どこにいるか,それらを一瞬で知ることは重要だろう。

第2の例。群れの男性たちが,いつものようになわばりの境界領域をパトロールしていたとしよう。すると突然,隣接する群れのメンバーに遭遇した。動く気配や声がする。茂みのどこに,だれが,何人潜んでいるのか。敵なのか味方なのか。そうした瞬時の判断を誤ると,ふくろだたきにされて,半殺しの目にあいかねない。

知性のトレードオフ仮説

なぜこの能力はヒトにないのか。「知性のトレードオフ仮説」を提唱したい。直観像記憶のような瞬間的な記憶機能と,表象を操作する言語機能のトレードオフである。それは個体の発達過程にもあるだろうし,進化の過程でも生じたと考える。

進化的視点についていえば,ヒトとチンパンジーの共通祖先は直観像記憶をもっていたと考える。生態学的にみてそれが有用だった。しかし,「額に白い斑点があり,右前脚に黒い毛があり,全身は褐色の生き物」と記憶するより,これを「ウマ」という1つの表象にすることの利点があるだろう。個々の事例を記憶するのではなくて,そこから抽象された,1つの集合を想起する。多様なバリエーション,細部の相違を超えて,共通する特徴にラベルを与える。そうした表象機能とか,象徴とか,言語とよばれるような機能の利点は,記憶を大幅に縮減できることだ。また,視覚や聴覚など異なる感覚情報を,表象を介して1つに結びつけ,知識のネットワークができる。

進化のある時点で脳の容量には限りがある,という点を銘記する必要がある。もしコンピュータであれば,新しい機能をもったモジュールを,バスと呼ばれる共通ラインに挿入すれば,新しい機能をすぐに付加できる。しかし,生物の構造や機能には進化的制約がある。別種と呼べる存在になるには,哺乳類でみても平均100万年以上かかるといわれる。新たな機能を単純に付加することはできない。おそらく,嗅覚や運動機能や,瞬間的に細部を記憶する機能を失って,そのかわりに言語的機能の萌芽を得たのだろう。

この記事は, 岩波書店「科学」2008年2月号 Vol.78 No.2 連載ちびっこチンパンジー第74回『直観像記憶と言語のトレードオフ仮説』の内容を転載したものです。