撮影:京都大学霊長類研究所/ Primate Research Institute, Kyoto University
図: 巨大モニタに見入るアイとアユム

新しい実験室

2008年の春,霊長類研究所(霊長研)に5つあるチンパンジーの実験室のうちの1つを模様替えした。これまでにも毎年少しずつ各実験室を改修してきたが,今回,田中正之さん(現: 京都市動物園 生き物・学び・研究センター長)らと計画し進めた改修は,霊長研でのチンパンジー研究の新たな出発を予感させるものになったと自負している。

御多分にもれず,チンパンジーの認知研究にも技術革新の波は確実に押し寄せている。去る5月にチンパンジーの比較認知研究「アイ・プロジェクト」の30周年を記念して行われた国際シンポジウムの懇親会場で,草創期の実験装置などの研究環境に関する貴重な話を聞くことができた。当時は実行速度や記憶容量の問題からプログラムやデータ中の1バイトですらおろそかにできなかったらしい。そういえば,私が大学院生だった20年ほど前でも,実行速度を上げるために,プログラムを夜中まで手直ししていた思い出がある。しかし,いまやフロッピーディスク1000枚の情報が小指の爪ほどの記憶媒体に余裕で収まる時代である。多少のへたくそなプログラムでも,コンピュータのパワーによって「さくさく」動いているように見えてしまう。以前は小さなモノクロの図形を画面上に描くことでさえ往生していたのが,いまや数百メガバイトの動画をチンパンジーに見せることなどまったく問題ない。

ただ,そのような歴史を振り返ってみても,霊長研のチンパンジー実験装置は画期的な先駆性をもっていた。その象徴がタッチパネルだ。いまや携帯電話にさえ装備されるようになったタッチパネルを霊長研では25年も前から使っていたのだ。モニタ画面上に提示された図形や写真に直接触れるという,チンパンジーたちにとってきわめて自然な反応を直接記録することができるこの技術は,今でも主力としてがんばっている。

トラックボールをころがす

ただ,このタッチパネル以後の技術革新があまりないのも事実だ。研究者に文系の人間が多いからかもしれないが,世の中にあまた存在する画期的な技術があまり導入できていない。しかし,少しずつだが,これまでにない装置が私たちのチンパンジー研究の中に導入され始めた。

たとえば,新たな入力装置として導入したトラックボール。これまでにも霊長類研究においては,ジョイスティックとタッチパネルが入力装置の2大派閥として存在したのだが,トラックボールを使った研究はほとんどなかった。今回,直径12cmという巨大なトラックボールを導入した。チンパンジーが,画面上のカーソルを標的に向かって移動させるべく,巨大トラックボールを操作する様は壮観である。動かし方にそれぞれ癖があるのも見ていて楽しい。現在,この装置を使って大学院生の兼子峰明さんが,自己と身体に関する興味深い研究を進めている。

入力装置の革新として,次に期待するのはジャイロセンサだろう。そう,家庭用ゲーム機のリモコンに導入され,いまや大人気のあれ,である。ジャイロセンサを組みこんだ入力装置をチンパンジーにもたせて振り回させると,壁に投影された映像がそれに応じて上下左右前後に移動するといったことも可能になるだろう。これも,知覚と身体の関係を探る有力なツールになるかもしれない。

視線を追う

トラックボールを操作しているときには,チンパンジーの視線はカーソルに向けられている。つまり,この装置を利用してチンパンジーの視線の制御も可能になる。となると次は視線の計測だ。チンパンジーが,写真や動画を見ているときや課題を遂行しているときに,どこをどのように見ているのかがわかると,彼らの情報処理メカニズムの理解がさらに深まるはずだ。これまでにも霊長研では,チンパンジーの視線を計測しようといくつもの試みが行われてきた。そしてことごとく失敗に終わった。最大の問題は,従来の装置ではチンパンジーに動かずじっとしていることが要求される,という点にあった。この問題を克服すべく目をつけたのが,最近,ヒトの赤ちゃんなどに利用されるようになってきた非接触・非拘束型の視線計測装置だ。大学院生の狩野文浩さんの努力により,チンパンジーでもこの装置で視線計測が十分可能なところまできた。

新しい入力装置,新しい測定装置。これらの導入によって, これまで答えられなかった問いに挑めるようになるだろう。

問いを生み出す技術

そして,今回の実験室の改修の最大の売りは,「超」巨大ディスプレイ(タッチパネル付き)の導入だ。これまで17インチ程度の「小さな」モニタしか使っていなかったところに,いきなり46インチの液晶モニタを設置したのだ(図1)。チンパンジーたちは,そこに映った等身大(あるいはそれ以上)の動物の動く映像を見て,これまでにはないさまざまな反応を示してくれた。さて,これをどう研究に活かしていこうか。

ある本に書いてあったが,レーザーが開発されたとき,研究者たちはこれを何に使ってよいか見当もつかなかったらしい。答えはあるが問いがない。今回新しい実験室に導入したさまざまな装置は,それぞれに研究の目的上必要だったために導入した「問いに答えるための技術」である。しかし,その一方で,研究者のイマジネーションを膨らませる「問いを生み出す技術」でもある。チンパンジーという常に問いを生み出し続ける存在と,問いを生み出す技術が出会ったとき,比較認知研究に新しい時代が到来するはずだ。

この記事は, 岩波書店「科学」2008年10月号 Vol.78 No.10 連載ちびっこチンパンジー第82回『新しい時代』の内容を転載したものです。