自己を知る

汝自身を知れ—古代ギリシアの格言である。このようなセリフを動物たちに向かって唱えても,どれだけの種が応じてくれるだろうか。

動物のこころの研究において「自己認識」は古くて新しい問題だ。これまでは,ヒト以外の動物ではチンパンジーなどのヒト科の霊長類や,シャチやバンドウイルカなど数種の鯨類のみが,自己を認識すると考えられてきた。しかし,最近はゾウやカラス科の鳥であるカササギも,自己認識をしているのではないかという報告がなされ,学会に激震が走った。ただし,ここでいう自己認識とは「私はなぜ生まれどこへ行くのか」といった深い自省の意識ではない。もっと知覚をベースにしたもの,つまり,「鏡に映っている自分が自分だとわかるか」というレベルにまで還元されたものさしではかられた「自己」だ。

チンパンジーに鏡を見せると,そこに映った自分をためつすがめつ眺めて,ときおり変な顔をしたり,歯の間に挟まっているかすをとったりする。また,気づかれないように口紅やドーランでマークをつけておくと,鏡を見ながらそのマークに触ろうとする。いまから40年前に,はじめてこのような「マークテスト」によってチンパンジーの自己認識能力が報告されて以来,あまたの研究があまたの種を対象に行われてきた。先に述べたイルカやゾウやカササギの報告も,このマークテストに合格した個体がいたということなのだ。ただし,ゾウやカササギの報告は,まだ一例ずつしかない。今後の研究の展開が期待される。

鏡を見る

発達のどの時期から「鏡の中の自分」を認識できるようになるのだろうか。人間では1歳半から2歳くらいになると,鏡の中に映ってる自分を見て「あ,まさきちゃんだ」と自分の名前を呼べるようになる。ほかにもさまざまな社会的認知能力が発達する時期でもあり,社会的なこころの成熟の中から自己が芽生えてくるということなのかもしれない。

では,チンパンジーたちはどうか。もうすぐ10歳になろうかという霊長類研究所のチンパンジーたちも,生まれて1ヵ月から4~5歳くらいまで,毎週1回,数分間鏡を見るという経験を積んできた。鏡を見せ続けていると,はじめはそこに映った自分を他者だと認識してあいさつ行動などの社会的反応が出てくる。また,鏡の裏に手を回し,鏡の中に映っている食べ物を取ろうとする。その後,鏡映像と自分の運動の間の対応関係を確認するように,手をゆらゆらさせてみたりする行動が現れ,最終的に鏡なしには見えない身体部分を鏡を利用して探索するという自己指向性反応が出現し,めでたく「自己鏡映像認識」が成立する。行動の変化のパターンは,ヒトもチンパンジーも違いはないようだ。最大の違いはその成立時期だ。今回のチンパンジーのうち2個体は,3歳前後でようやく自己指向性反応が初発した。でもクレオという名の女の子は,この実験の期間中にはまったく示さなかった。人間とは違って健やかに成長した子どものすべてに,鏡に映った自分が認識できるわけではない,というのもチンパンジーの特徴なのかもしれない。

お年頃と鏡

さて,そのクレオだが,9歳半になった今はどうか,実は,鏡大好きっ子になっているのだ。

チンパンジーは性成熟に達すると,ほぼ1ヵ月周期で性皮が腫脹し発情状態になる。そこで妊娠にいたらないと,性皮は再びしぼんで月経にいたる。クレオも6歳になった頃からこの性皮の腫脹が見られだした。クレオは7~8歳頃から鏡を見だしたように記憶している。今では3個体の中で最も鏡をよく見る。しかし,四六時中見ているというわけではない。月に一度やってくる性皮の腫脹にあわせて,鏡を見る頻度も増減を繰り返しているようなのだ。

最近は,性皮が腫れて発情しているときは,実験ブースにやってくるや否や,鏡の前にやってきて,あられもないポーズで鏡に性皮を映してその形,張り,汚れぐあいを飽きることなくチェックし続ける(図1)。問題を解いていたかと思うと,すっとコンピュータの前を離れ,また鏡の前に向かう。こんなことの繰り返しだ。これが,発情が終わり,月経も終える頃になると,憑き物が落ちたかのように鏡を見る頻度が低下する。

そういえば,経口避妊薬で発情を抑制しているおとなの女性たちは,よほどのことがない限り,鏡の前で自己指向性反応を示すことはない。自分とわかっていても「だから何?」といった感じだ。

内面と自己

このようなクレオの様子を毎度毎度観察するにつれ,「自己」の認識には,「内面からわきおこってくる変化」に対する感受性が大事なのかもしれない, と考えるようになった。自分の目で見ることができない体部位から発せられる「変な感じ」をなんとか確認しようとして右往左往する中で,鏡映像と自己受容感覚(内側からのさまざまな感覚)の対応関係の成立が促進されるのかもしれない。お年頃になったクレオの振舞いは「自己意識」の意味を考えるよいきっかけとなった。

最近,男の子のアユムも,解答を間違えるとときどき鏡を見て歯をチェックするようになった。こちらもお年頃なのか。それともただの現実逃避?

この記事は, 岩波書店「科学」2010年2月号 Vol.80 No.2 連載ちびっこチンパンジー第98回『鏡の国のクレオ』の内容を転載したものです。