図: トラックボールを操って丸いカーソルを操作するチンパンジー・ペンデーサ。 撮影:兼子峰明

チンパンジーの自己認識

第90回(2009年6月号)で紹介した,トラックボールを用いた実験が論文となり公表された。記者会見も行い,各種媒体でも取り上げられた。そこで,研究の内容や苦労話について,ふたたび紹介しようと思う。

これまでの「自己」に関する比較認知研究といえば,ほぼすべてが「自己鏡映像認知」を指していた(第98回,2010年2月号)。鏡の前では,普段は見ることのできない身体部位に向かって探索する行動がチンパンジーをはじめとした大型類人猿では認められる。この反応のあるなしが,長い間,ヒト以外の動物における「自己認識」を調べる唯一の手段だった。その結果としてヒト以外では,大型類人猿,ハンドウイルカやシャチなどのイルカ類は,「自己鏡映像認知」ができることがわかってきた。近年ではこのリストにゾウが加わる可能性が示唆されている。

しかしながら,鏡に映った自分の映像に対する反応だけでは不十分であることも,多くの研究者は理解していた。「自己」ということばでくくることのできる認知システムは複雑であり,それをさらに詳細に調べるためのツールとしては,鏡にはあまりにも多くの要因がかかわりすぎている。とくに,次の2つの要因を分離する必要性があるかもしれない。1つは,鏡に映っている「容姿」という情報だ。たとえば,人間なら,自分の顔写真を見て即座に自分であるとわかるが,チンパンジーでそのような研究はまったくない。もう1つは,自分が外の世界に働きかけ,外の世界に変化をもたらしているのだという認識だ。風車に息を吹きかけてくるくる回るのは「自分が」息を吹きかけたからであって,何か別の理由によるのではない,という認識だ。このような感覚を「行為の主体感」という。この「自分が行っているのだ」という感覚があれば,TVゲームで「自分が」操作しているキャラクターの容姿が自分とまったく異なるものであっても,そのキャラクターを操っているのは自分だ,という感覚は容易に生起する。鏡では,この2つの要因を分離できない。

トラックボールを操るチンパンジー

そこで,トラックボールを用いた課題を考案した。トラックボールとは,ボールをころころと回すことによってモニタ画面上のカーソルを操作する入力機器だ。これを使うことをまずチンパンジーに訓練した。ところが,これにはひと苦労もふた苦労もあった。それはそうだ。これまでずっと,タッチパネルつきモニタに触れることばかりやってきたチンパンジーたちだ。床近くに設置されたトラックボールなど見向きもしない。トラックボールの下に電球をセットして,明るく輝くようにしたところ,ようやく注意をそちらに向けてくれるようになった。だが,今度はボールしか見ない。一進一退しつつようやく,画面上のカーソルを見ながらトラックボールを操作することができるようになった(図)。しかし今度は,トラックボールを一方向にしか動かさない個体や,力任せにごろごろさせるだけの個体など,その扱い方に「個性」がにじみ出てきた。この装置を使って,「衝動性」や「新奇希求性」などの「個性」が測れるのではないかとほんとうに思ったくらいだ。

導入の初めにはかなり苦労したが,実験に参加した3個体は,最終的には,画面上に提示された緑の標的に向かってカーソルを動かし,ぶつけて消すことができるようになった。次には,「行為の主体感」をテストするためのベースとなる弁別課題の訓練だ。自分が操作しているカーソルと同型のカーソルがもう一つ提示される。このダミーカーソルは直線的な反復運動をするだけだ。一定の時間,チンパンジーが自分のカーソルで緑の標的をつぶしていると,突然,白いカーソルが赤に変化し,そして静止する。これが「選択フェーズ」のサインだ。このフェーズにはいるとチンパンジーは2つの赤いカーソルのうち,自分が操作していたほうを直接指で触れることが要求される。正解ならばごほうびがもらえる。

動かしているのはこのわたしだ

ここまで訓練が完了したらテストに移行した。テストでは,ダミーカーソルは単純な動きではなく,記録しておいた過去の自分のカーソル操作を再現するようにした。第三者からはどちらがダミーかはほとんどわからない。しかし,自分でカーソルを動かしている者にとっては明白な課題のはずだ,もし,「行為の主体感」が成立しているのであれば。テストの結果,3個体とも7割を超す確率で自分が今動かしているカーソルを選択した。チンパンジーにも行為の主体感があるのだ。

この感覚を規定する要因は何だろうか。最も重要なのは,自分の行為によっておこるであろう変化の予測と,実際におきた変化の間の,比較照合だ。そこで,この照合過程をくずす操作を施してみた。カーソルの動きを少しだけ遅らせたり,移動方向を135 °ずらしたりすると,チンパンジーの成績は明らかに低下した。とくに方向をずらすとまったくできなくなった。さらに,前者の要因を完全に除去してみた。つまり,2つのカーソルが勝手に動いている,という状況だ(以前のテスト試行での動きを記録しておいて再現するという課題だ)。当然,成績は,自分が操作している場合よりも大きく低下した。でも興味深いことに,でたらめにまで落ちることはなかった。一方のカーソルはかつて緑のターゲットを消すべく動いていたものだ。このような動きの「目標」が存在するということが2つのカーソルを区別する手がかりとなっていた可能性もある。もしかすると,ここにヒトとチンパンジーの違いがあるかもしれない。現在,さらに研究を進めているところだ。

この記事は, 岩波書店「科学」2011年7月号 Vol.81 No.7 連載ちびっこチンパンジー第115回『世界に働きかける「わたし」』の内容を転載したものです。