Credit: Michiko Fujisawa

あっという間の出産

2011年11月4日の午前9時20分,ギニアのボッソウの野生チンパンジーの出産を,藤澤とガイドのジル・ドレが目撃した。飼育下の出産は,平田らによって詳細に報告されている註1が,野生での目撃例はきわめて少ない。ボッソウでは,過去36年間の調査で2例目だ。

母親はファンレ14歳(1997年10月生まれ)。人間でいうと20歳くらいだろう。すでに息子が1人いる。フランレ4歳(2007年9月生まれ)である。ファンレの母のファナ推定55歳(1956年生まれ)も健在だ。つまり,年齢順にいうと,祖母,母親,その息子,そして生まれてくる赤ん坊,というのが,今回登場する主なチンパンジーたちである。母親の妊娠はすでにわかっていた。生理周期が止まったので,少量の尿を採取し,人間と同じキットを使って判定したのだった。

出産当日。いつものように朝6時半に調査基地を出て森に入り,祖母,母親,息子の3個体を見つけた。チンパンジーの遊動域の中心の,バン山の頂上に近いところだ。ただ,母親のファンレだけは,樹上のベッドからなかなか出てこない。 結局,いつもより2時間以上も朝寝坊して,8時にファンレがようやくベッドを出た。3個体はそれぞれに移動して,大きなイチジクの木にやってきた。祖母と息子はすぐさま登って,果実を食べ始める。しかし,ファンレは近くの木の枝に横になった。

20分間ほど横たわった後,やおら起き上がった。そして,手近な枝を折りしいてベッドを作った。昼間のベッドは簡単なものが多い。しかし,このときは夕方に寝るときと同様に立派なベッドを丁寧に作った。

さらに20分間ほど,何度か姿勢を変えた。

……あっという間のできごとだった。出産の姿勢はよく見えなかった。「フー」と聞こえる,フートと呼ばれる高い小さな声を発したかと思うと,ファンレはすでに,腹に赤ん坊を抱えていた。

まわりのチンパンジーたち

ファンレの発した声を聞きつけ,イチジクを食べていた祖母のファナが急いで木を下りてきて,近くの枝からファンレのようすを見守った。たまたま同じ木で採食中だったベル(推定52歳)という老齢女性もまた,ようすを見に下りてきた。

4歳の息子フランレは,同じベッドにまでやってきて,赤ん坊のようすをのぞきこんだ。産んだばかりのファンレは手を差し伸ばして,この息子もベッドに迎え入れた。

その後,ファンレは立ち上がり身体を少し揺すった。胎盤を出していたのだろう。そしてその胎盤を食べ始めた。祖母のファナ,老齢のベルは,さらに近くまでやってきてそれを見つめる。同じベッドの中にいた4歳の息子は,食べるようすを至近距離からのぞき込んだ。

哺乳類には,胎盤を食べる種が多い。これには諸説がある。捕食者が血液の匂いを嗅ぎつけないように食べてしまうのだともいわれる。あるいは,胎盤は栄養に富んでいるからだともいう。胎盤は,子宮収縮・止血・乳汁分泌促進作用のあるオキシトシンなど,ホルモンも豊富に含んでいる。他にも,胎盤を食べることで母子の絆が強くなる,出産により肉食傾向になるなど,さまざまな理由や効果が指摘されている。今回は,母親が胎盤を食べ始めると,他のチンパンジーが集まってきた。胎盤食は,栄養学的な意味や母子の絆だけではなく,群れの絆の形成にもかかわりがあるのかもしれない。

胎盤を食べ終えたころ,母親ファンレの兄にあたるフォアフ(31歳)がきた。群れのリーダー格である。するとファンレは赤ん坊とともにベッドを出て,木を下りて彼に挨拶した。ゴッゴッゴッと聞こえるパントグラントという声である。その場にいたチンパンジーたちが,皆,この生まれたばかりの赤ん坊を見に集まってきた。

フォアフが立ち去ると,ファンレは再びベッドに戻って長い時間休んだ。翌日も,ほとんどの時間をベッドで過ごした。胸にしがみついた赤ん坊に片手を添えて,もう一方の手で臍の緒を,翌日の夕方まで持ち歩いていた。

ガイドたちは,いつものように相談して,この新生児に名前をつけた。ファンワ,現地のマノン語で「勇気づける」という意味だ。しばらく後に,ようやく男児だと判明した。

母親と祖母の役割分担

チンパンジーの女性は一般的に,適齢期になると,生まれた群れを出て他の群れに嫁入りする。ボッソウでは,これまですべての女性が,産む前に移籍するか,1人を産んでその子が小さいうちに群れを出た。ファンレは,生まれた群れの中で2人目を産んだ最初の例である。

4歳の息子フランレは,これまで,母親ファンレと祖母ファナの愛情を独り占めして育ってきた。ファンレにも抱かれるし,ファナの背中に乗って移動することもある。ボッソウの老齢女性には「おばあさん」という社会的役割があるのかもしれない(本連載第96回99回111回参照)。ファナはファンレを産んだ後,14年間も子どもを産んでいない。尻がはれる性周期はまだ見られるが,産む役割は終えているのかもしれない。

ファンワが生まれて,ファンレは赤ん坊にかかりきりになった。最初の日こそ,上の子フランレは,母親に対してヒステリックに泣く,背中に乗る,といった行動を示した。弟妹が生まれたときの,よく知られた行動だ。しかし,祖母のファナがいるからか,母親への執着は薄かった。ファンレは赤ん坊の世話に専念し,ファナが上の孫の面倒をみる。そういう分業が始まった。

この記事は, 岩波書店「科学」2012年3月号 Vol.82 No.3 連載ちびっこチンパンジー第123回『野生チンパンジーの出産』の内容を転載したものです。