WISH大型ケージ熊本1号機(左)と普賢岳(右)
図1: WISH大型ケージ熊本1号機(左)と普賢岳(右)

新しい研究空間の完成

熊本サンクチュアリに、比較認知科学実験用大型ケージが完成した(図1)。チンパンジーの日々の暮らしの場であり、そして巨大なテストケージである。既設の建物の屋上に、広さ100m2弱、高さ4.5mの新たな空間が2つ建築された。眼下に有明海、島原湾を望み、海の向こうには普賢岳を眺めることができる。

この空間の中で、複数のチンパンジーたちが日常を過ごし、上下左右に広く動き回ることができる。それがそのまま研究の場になる。コンピュータで制御するタッチパネルを備えるなど、研究するための工夫が施されている。

新機軸は大きく3つあげられる。第1は、日常を過ごす空間なので、1日24時間すべてが研究の時間になるということである。第2は、日々の暮らしの中から認知研究を構想する点である。従来のチンパンジー認知研究では、日常を過ごす空間と研究用の部屋が別々にあり、特定の個体を研究部屋に呼び入れるというやり方をとってきた。新しい大型ケージによる研究では、日常生活に根差した行動を研究対象とすることができる。第3は、集団全体が研究の対象であるということである。複数のチンパンジーの相互交渉を見ることを通して、彼らの社会を解明したい。

さて、熊本サンクチュアリに新設された大型ケージで最初に暮らすことになったのは、コテツ、ベルという名の2人の男性と、サイ、クミコ、リナ、ノノの4人の女性、あわせて6人のチンパンジーたちである。

タッチパネルにのぞむチンパンジー
図2: タッチパネルにのぞむチンパンジー. 写真中央がサイ

サイ39歳と初めてのタッチパネル

早速、タッチパネルを使った研究を始めてみた。トラブルを避けるため、さしあたっては女性陣だけがいる時間帯にタッチパネルを稼働させてみた。課題は簡単だ。画面上に出てくる大きな赤い丸を触ればよい。赤丸を触ると、小さく切ったリンゴがごほうびとして出てくる。リナやクミコは順調にこなした。ふたりとも、タッチパネル自体を触る課題の経験が過去にあったからだろう。

さて、最年長39歳のサイは、目下のところ苦戦中である(図2)。人間で言えば60歳に近い。生まれてこのかた、タッチパネルというものに触ったことがない。最初の2日間は、装置を近くから眺めるだけだった。研究開始から3日目に、ようやくタッチパネルの前に陣取った。しかしどうも、タッチパネルを触るのが怖いらしい。画面に手を伸ばしかけるが、触る直前に手を引っ込めてしまう。6日目、ついにサイが画面に触った。ただし、触る位置が決まっていて、いつも画面の左下だ。

研究開始から11日目、ようやくサイが、触る位置を少し変えるようになった。画面の左下を触ってリンゴ片が出てこなければ、少し違う場所を触ってみるようになった。しかし赤丸の位置に応じて対応する、というまでには至っていない。

サイは、アフリカ生まれの39歳。生まれてこのかた、タッチパネルなど見たこともない。初めて見る装置に戸惑っても当然だろう。幼いころからタッチパネルの経験を積んで育ったチンパンジーたちと同じようにはいかない。

展望

ひるがえって人間のことを考えてみよう。現代日本で、パソコンやスマートフォンを操作することはもはや日常となった。しかし、例えばここにアフリカ・コンゴの森で暮らす人が来たら、さぞや驚くことだろう。電気も水道もない村で育ち、パソコンやスマートフォンの存在すら知らない人々である。すんなりと現代日本の生活に溶け込めるとは考えにくい。

逆に、日本で育った大人がコンゴの森に入ったら、樹海のような森の中で戸惑うだけだろう。現地の人々は、広大な森の中で自分の居場所を把握し、草木に残されたほんの少しの痕跡から動物の動きを読み取ることができる。日本人も、幼いころからそこで育てば同様の能力を身に付けるに違いないが、大人になってからでは難しい。

現代の日本人だけを理解しても、人間全体を理解したことにはならない。多様な環境で多様な暮らしがあることに目を向けることが必要だ。チンパンジーでも同じである。暮らす環境によって違いがあり、新生児から老年期までの発達加齢によっても変化が生じる。

年配のチンパンジーを相手にタッチパネルを使った研究をするわれわれ研究者が間違っていた、と言いたいわけではない。物事を測るとき、共通のものさしが必要だ。タッチパネル課題は、その共通のものさしのひとつである。同じものさしで測るからこそ、違いが明確に見えてくる。肝心なのは、ひとつのものさしで測っただけでは全体の姿は描けない、ということである。物事の多様な側面を、いろいろな尺度で測る必要があるだろう。タッチパネル課題をひとつの足がかりにして、チンパンジーの1日すべて、日常すべて、集団すべてを対象とした研究へとつなげてゆきたい。

新しい装置にチンパンジーが戸惑うことから始まった熊本サンクチュアリの大型ケージでの研究。この先にどんな展望が開けるか、われわれ研究者の力量が試されているといえよう。熊本サンクチュアリの53人の個性豊かなチンパンジー。彼らが見せる多様な姿。その中に垣間見える真実を追求したい。

謝辞

日本学術振興会最先端研究基盤事業「心の先端研究のための連携拠点(WISH)構築」、霊長類研究所特別経費プロジェクト「人間の進化」の支援を受けた。

この記事は, 岩波書店「科学」2012年9月号 Vol.82 No.9 連載ちびっこチンパンジー第129回『チンパンジー研究の新時代:WISH大型ケージ熊本1号機の稼動』の内容を転載したものです。