撮影:山本英実、2012年
図: 樹皮を食べるオランウータン母子

はじめての野生類人猿

2010年から今年(2012年)までの3年間、11月から12月にかけて、ボルネオ島のダナム・バレー自然保護区に学生たちとともに野生オランウータンの観察実習に出かけた。

実を言うと、チンパンジーの認知機能の研究に手を染めてから28年、一度も野生の類人猿を生で見たことはなかった。今の若い研究者からするとありえない経歴である。だから、今回の3回におよぶ野生オランウータン観察実習は、私にとってはじめてのフィールド仕事であり、はじめての野生類人猿との出会いだったのだ。

ダナム・バレーは、ボルネオ島のマレーシア・サバ州に位置している。日本からは州都のコタキナバルまで直行便で5~6時間。そこから最寄りのラハダトゥまではプロペラ機で小一時間。ラハダトゥより先は車に揺られて約3時間。長旅ではあるが、これでもアフリカに行くのに比べれば楽だろう。

機上、ラハダトゥに近づくと窓の外にはきれいな緑の木が生い茂っているのが見えてくる。ああ、これがジャングルというものか、と思ってよくよく見ていると、実はそれがすべてアブラヤシの木であることがわかる。見渡す限りの緑はほとんどすべてプランテーション農場だ。話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると、言葉を失う。

車に乗ってアブラヤシ農場の中をひたすら突き進んでいくと、チェックポイントが見えてくる。ここを過ぎると保護区だ。気がつくと周りの木々もその姿を変えている。30mを超えようかという木があちこちにそびえている。また、道端にころがっている大きな糞は、一度もその姿は見なかったが、アジアゾウのものらしい。

邂逅

1年目の訪問の時には、夕方前に宿泊先のロッジについた。このロッジは,トレッキングなどをパッケージ化したダナム・バレーのエコツーリズムの拠点となっている。

まずは、ロッジの周りの森を散策した。コタキナバルのまとわりつくような暑さは,森の中では感じられない。しかし、私たちが訪れた11月から12月というのは本格的な雨季の始まりの時期だ。当然森の中の湿度は想像を絶するものだった。ちょっと歩くだけで汗をかき、その汗が全く乾かない。速乾性のシャツが必需品だ。

時間もないのでひととおり歩いてロッジに帰る途中、ロッジの目と鼻の先の木の上で,男性のオランウータンといきなり遭遇した。あわててカメラを向けたが,興奮のあまりブレてしまって何が何やらわからない。あきらめて,この目にじっくり焼きつけることにした。ひとりでゆったりと果実を黙々と食べている,アブという名のオランウータン。ひとしきり食い散らかすと、木の下に集まっている人間を尻目に,悠々と森の奥へと消えていった。突然現れ、そして消えていく。これが野生のオランウータンだ。

熱帯雨林初心者にとっては、見るもの聞くものがすべて新鮮だった。突然のスコール、長靴の中にまで入ってくるヒル、姿は見えないもののあちらこちらから聞こえてくる鳥や虫の声。地面の感触も,アスファルトの上を歩く時とは比べものにならないほど心地よい(よくすべってころびそうにはなったが)。3回目の訪問となった今年でさえ、この感動は消えることはなかった。動物園では全く体験することのできない世界だ。

オランウータンとは何者か

今回の3回にわたる訪問は、野生のオランウータンを観察することそのものが目的であった。だから、毎回、とくに何かテーマを決めて観察していたというわけではない。しかし、野生のオランウータンを研究するということのむずかしさは、ガイドをしてくれた京大野生動物研究センターの久世濃子さんや金森朝子さんの様子を見ているとよくわかる。森の中をさまよいながら、30mを超そうかという木の樹冠部にかすかに揺らめく赤い物体を見つけるや否や、瞬時に個体識別をし、行動の観察を始める。でも、オランウータンは2時間も昼寝していたかと思うと、のそのそとさらに高い木の方へと移動していく。地上で暮らす私たちには想像もつかない世界が,樹上には広がっているのだろうか。こういった遭遇を繰り返しながらデータを蓄積していく。私などは,樹冠部に居座るオランウータンを見上げ続けると,5分もしないうちに四十肩と首が悲鳴を上げるというのに。

野生のオランウータンを見続けて抱いた感想は、その「距離感」につきる。見渡す限りの木々の中で、たったひとり(あるいは母子一組)しかオランウータンはいない(図)。私たちの目の前に現れるといっても、それははるか数十m先の木の上だ。赤いかたまりがもごもご動いて消え去るということもよくあった。

しかし、この距離感を埋めて余りある存在感にいつも圧倒される。双眼鏡をのぞくと向こうもこちらを睥睨している。金森さんたちに聞くと、彼らは、ずっと離れたところにいる「お隣さん」の存在の影響を明らかに受けて行動しているらしい。彼らは孤独ではないのだ。

その背後にある心の働きとは,いったいどのようなものだろうか。オランウータンは思ったほど音声コミュニケーションをしない。彼らは、はるか先にいる相手をどうやって認識し、「適切に」距離を保っているのだろう。実のところ、野生下での彼らの社会的な認知のありようはほとんどわかっていないのだ。

動物園などで見るのとは全く違った姿を見せてくれたダナム・バレーのオランウータンたち。あらためて,彼らはいったい何者なのかという興味がふつふつとわいてくる。

付記:ここで報告した野生オランウータン観察実習は、京都大学霊長類研究所/日本学術振興会のAS-HOPE事業の支援を受けた。

この記事は, 岩波書店「科学」2013年2月号 Vol.83 No.2 連載ちびっこチンパンジー第134回『ダナム・バレーにて』の内容を転載したものです。