母親による子育て

林美里『母親による子育て』(出典:岩波書店「科学」2016年1月号 Vol.86 No.1 連載ちびっこチンパンジー第169回)

母親が子どもを産み,育てる。当然のように思うかもしれないが。じつは違う。とくに人間に近いチンパンジーなどの大型類人猿では。母性本能だけで子育てができるわけではない。自分自身が母親に育てられ,さらに自分の出産までに子育て中の他個体を観察したり,小さな子どもと接したりする経験があるチンパンジーは,よい母親になる可能性が高くなる。一方で、母親がうまく育てられなかったために人間が代わりに育て、同種のなかまと接する機会も限られていると,かなりの確率で育児拒否や育児困難がおこる,そうして人間に育てられたチンパンジーの子どもは、また自分で子どもが育てられない母親になってしまう。こうした負の連鎖をおこさないために。なるべく人工保育をしないということが国際的なスタンダードになってきている。飼育員と母親チンパンジーとのあいだに良好な信頼関係があれば,いろいろな場面で育児介助をすることで,母親の子育てをサポートすることもできる(本連載第21回)。チンパンジーの子どもは,テンパンジーの母親に育てられることで,チンパンジーとしての自然な行動を身に着けて成長していくことができる。


育児の難関

赤ちゃんが産道から出てきたところで,母親が受けとめて抱くことができれば,第一関門突破だ。母親が赤ちゃんを抱けなかった場合,何とか母親が赤ちゃんに近づくように促す。チンパンジーの場合、赤ちゃんが近づいた母親の毛につかまることができれば,しがみついてくる赤ちゃんを母親が抱き,それをきっかけに母親の育児行動がはじまる。母親が赤ちゃんに近づかず赤ちゃんが弱ってきた場合,あるいは赤ちゃんに対して攻撃的な行動をとった場合には,一時的に人工保育を選ばなくてはいけないこともあるだろう,しかし赤ちゃんの体力が回復したら、なるべく早く母親のもとに戻す努力をすることが重要だ。霊長類研究所では,クレオが一晩、ピコが10日間,母親から離れて人口保育となったが、その後は無事に母親のもとに戻った。出産直後は母親も動揺していて,びしょぬれで自分の体から出てきた黒くて動くかたまりを抱けないことも十分想像がつく。少し時間がたって落ち着いてから,動くぬいぐるみのように小さな赤ちゃんを見れば,幼少期によほどのトラウマなどがない限りは。母親も子どもを攻撃することはないだろう。

母親が子どもを抱いている状態で,次の関門となるのが,授乳の成功だ。筆者自身が子どもを産んではじめてわかったのが,母乳で育てることの難しさだった。初産の場合,子どもがしっかり乳首を吸ってくれていても,初日から十分な量の母乳が出ることは望めない。筆者の場合は,数日後にようやく少しずつ母乳が出るようになり,1週間後くらいにそれなりの量が出るようになったものの,授乳の後に粉ミルクを足す混合栄養だった。チンパンジーの母親のように,完全に母乳だけで育てることの大変さを実感した。また,新生児の体力を信じて,母親の体の準備が整うのを気長に待つ姿勢も必要だとわかった。霊長類研究所では,母親が乳首を吸われるのを嫌がったため,クレオには粉ミルクを補助的に与えていた。子どもがミルクを飲むのを邪魔されないよう,母親用にもミルクを作り,二刀流で母子に同時に哺乳していた。

チンパンジーの場合には,母親が赤ちゃんを抱く,授乳が軌道に乗る,という2つの難関をクリアすれば,育児がうまくいくようだ(図)。チンパンジーの赤ちゃんは,人間の赤ちゃんと違って,ほとんど泣かない。母親の体から離されたり,自力ではうまく乳首にたどりつけなかったりしたときにだけ,フフと小さな声をあげる。こうした子どもの行動に適切に反応することで,母親の側も子育てのコツをつかんでいくようだ。また,障害をもった子どもに対しても,母親がその子にあわせた育児をすることが報告されている(本連載第48回,文献1)。そうして,母子のあいだに育まれた絆はとても強く,ギニア共和国・ボッソウのチンパンジーの母親は,子どもが死んだ後も手放さずに持ち運び,ミイラになるまで一緒にすごす2


かなしい出来事

2015年9月22日,1人のチンパンジーの赤ちゃんが誕生した。母親のポコは,自分が母親に育てられていたので,初産ではあったがしっかりと赤ちゃんを抱くことができた。父親はテレビによく登場するパンくんだ。母親による授乳が軌道に乗る前の段階で,赤ちゃんが泣き声をあげず弱っているように見えるなどの理由から,人間が赤ちゃんを母親からとりあげてしまった。母親から突然引き離されてしまった赤ちゃんは,大きな声で泣き叫んでいた。  

赤ちゃんは,人間から哺乳瓶でミルクをもらい,小さな保育器の中でタオルやクッションにしがみつきながら育っている。体重もすっかり増えて,身体的にはいたって元気そうに見える。一刻も早く母親のもとにかえしてほしい。もう母乳は出ないかもしれない。それでも,ずっと母親に抱かれてぬくもりを感じ,母親に抱かれてチンパンジーの動きや見る世界を一緒に体験することが,50年というこれから先の長い子どもの生涯において,とても重要な意味をもっている。

チンパンジーの子どもに人間らしい仕草を覚えさせ,洋服を着せてかわいい姿をテレビで見せるという目的のために,母親が子どもを育てるという権利が奪われていいのだろうか。国際霊長類学会は,母子分離とテレビ番組やショーでの大型類人猿の使用を禁止している。 SAGA(アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い)では,不当な人工保育に対する批判声明を出した3.チンパンジーの子どもが母親とともに幸せにくらせる日が来るよう,1人でも多くの方にご賛同いただきたい。




図1: 母親に抱かれているチンパンジーの子ども。撮影:落合知美。
この記事は, 岩波書店「科学」2016年1月号 Vol.86 No.1 連載ちびっこチンパンジー第169回『母親による子育て』の内容を転載したものです。