こころの進化を育む環境

チンパンジーを研究していて,いつも感じることがある。それは,環境への適応のすばらしさだ。チンパンジーは幼児であっても,15mの高さのところに張られたロープの上を2足で軽々と渡っていく。そこで発揮されている身体能力や環境認識能力は,彼らがアフリカの森に適応してきた生き物であることを強く私たちに伝えてくれる。ここ数年,私はこころの進化を育んできた環境の問題に興味を持ち,私たちとは異なる環境に適応してきた哺乳類を対象とした研究にも着手している。すでにこの連載でも紹介したが,イルカでの研究もその一環だ(本連載第147回)。そして,つい最近,私にウマという新しい研究仲間が加わった。実は,日本の霊長類研究とウマとの間には切っても切れない縁がある。1948年,今西錦司率いる調査隊が宮崎県幸島のニホンザルに出会う前,彼らは都井岬の御崎馬の調査にきていたのだ。御崎馬の社会の研究はその後もすすめられたが,私の専門であるこころの研究は,世界的にみてもほとんど手つかずだった。

ウマを対象にした比較認知研究

ウマは,チンパンジーとは全く異なる環境に適応してきた。草原のような開けた環境で,絶えず捕食者の存在に注意を向けながら暮らす。目は側頭部に位置し,霊長類とは比べものにならないほどの広い視野を獲得した。私たちとは異なるパノラマ的な世界に暮らす彼らには,世界がどう見えているのか。幸いなことに,松沢哲郎氏らがウマに関するフィールドワークと比較認知科学の国際共同研究を立ち上げようとしていた。そこに私も参加して,3頭のポニーを相棒としてプロジェクトがスタートした。実は,ウマのこころの研究には苦い歴史がある。「クレバー・ハンス」と呼ばれるウマのことだ。足し算や掛け算ができるウマとして有名になったが。飼い主が無意識のうちに出していた微細な手がかりに応答していただけだったのだ。今回のプロジェクトでは,このような問題を克服するため,世界で初めてタッチパネルを導入した。ウマが画面上のどこを囗で触れたかを客観的にコンピュータに記録することができるからだ。

エラーレス学習

まず,モニタに大きな黒く大きな目立つ丸を映し出した。はじめはコンピュータではなく人間がウマの行動を注意深く観察しながら,彼らがモニタを見たらごほうびのニンジンをひとかけ,丸の方に近づいたらニンジン,そして丸に触れたらニンジン,というようにして少しずつ「画面の図形に触れる」という行動を形成した。学習心理学でいうところの逐次接近法だ。ここまでくれば,コンピュータが自動的に反応を検出してくれる。しかしこれだけでは不十分だ。図形の識別を訓練したい。そこで,エラーレス学習という手続きを採用することにした。今から50年くらい前に編み出された手法だ。大きな黒い丸を両面の左右いずれかに映す。当然ウマたちはそれを触ろうとする。しかしこの時反対側にとても小さな丸を同時に提示しておく。このような場合でも,ウマたちの注意は大きな丸に向いているのでそちらを躊躇なく触る。何度か「正解」すると,少しずつ小さい方の丸を大きくしていく。それでもウマは2つの丸を首を振って見比べたりしつつも,安定して大きい方の丸を選び続けた。

撮影: 友永雅己/Primate Research Institute, Kyoto University
図: 大きい方の丸を選ぼうとしているポニーの「ニモ」

ウマの目からの眺め

丸の大きさの識別ができた。ではどこまでの違いを見分けることができるか。心理学でいうところの「弁別閾」の測定を行った。ウマたちの成績に応じて小さい方の丸のサイズを大きくしたり小さくしたりしながら,7O%の正答率を維持できるぎりぎりのサイズの差を調べた。その結果,直径で比較すると65mmと56 mmの区別ができるということがわかった。じつは,この数値はチンパンジーやヒトにくらべるとかなり悪い。チンパンジーでは65 mmと62 mmの区別ができ,私たちは1mmの差を見分けることができる。この種差はどこからくるのだろうか。視力の違いかもしれない。さらなる検討が必要だ。

大きさの識別に続いて,かたちの識別だ。ここでもエラーレス学習法を活用した。大きな丸と小さな丸の識別はすでにできていた。そこで,小さい方の丸を×に変えた。ウマは大きさに注意が向いているので,かたちが変わっても問題なく大きな丸を選ぶことができた。そこで,以前と同じように×の方の大きさを少しずつ大きくしていった。これもうまくいった。そこで,この2種類に6種類の図形を加えて,合計8種類の28の組み合わせについて識別訓練を行った。予想通り,成績の芳しくないペアもいくつか出てきた。これら星取表のような結果をもとに どの図形と図形がウマにとって似て見えているのかについて,以前のイルカやチンパンジー,ヒトでの研究と同じように分析してみた。すると驚いたことに,かたちの見え方が基本的には非常によく似ていることがわかった。ただし,細かいところを見ると種差があることもわかった。ウマでは全体の見え方よりも,細かい部分の方の違いにより注意を向けるようだ。

3頭のポニーのおかげで,ウマからの世界の眺めの一端を覗くことができた。その先に広がる豊かなこころの世界を,さらにみてみたいと思う。

この記事は, 岩波書店「科学」2016年2月号 Vol.86 No.2 連載ちびっこチンパンジー第170回『ウマの目からの眺め』の内容を転載したものです。