Image Credit: Tetsuro Matsuzawa /Primate Research Institute, Kyoto University ヤン・ファンホーフさんと松沢哲郎先生
ヒトのほほ笑みには意外な起源がある(ヤン・ファンホーフ・ユトレヒト大学名誉教授と筆者)

オランダというと何を連想するだろうか。チューリップ、チーズ、風車、運河。画家のレンブラントやファン・ゴッホ。「アンネの日記」のアンネ・フランクの隠れ家は、今も首都アムステルダムの運河沿いにある。

かつてオランダは日本にとって西欧への窓だった。幕末に来日したシーボルトは、日本の植物を記録し、サルやカワウソの標本を持ち帰った。ライデン民俗学博物館などに収載されている。

チンパンジー研究でもオランダの存在感は大きい。アムステルダムの大学で開かれた小さな学会で講演したとき、聴衆の中にユトレヒト大学の名誉教授、ヤン・ファンホーフ博士がいた。人間の「笑い」と「ほほ笑み」は進化の起源が違うことを半世紀も前に指摘した動物行動学者だ。

笑いは、ワッハッハと口を大きく開ける。これはサル類の「遊びの顔」に由来している。チンパンジーの子どもがくんずほぐれつ遊びながら、相手の首筋や腹をくすぐるように優しくかみつく。すると、口をまるく開けて歯は見せず、ハァハァハァとあえぐようなかすれた声を出す。まさに笑顔であり、笑い声だ。これが人間の「笑い」となった。

一方、ほほ笑みは、唇を真横に引いて、端をきゅっと上につり上げる。かすかに唇を開いて歯を少し見せる。これはサル類に共通した「恐れの顔」に由来する。

ニホンザルには順位がある。上位の者が近づくと、下位の者はキャッと叫ぶように歯茎をむき出した恐れの表情をする。顔はそむけて視線を落とす。実際に悲鳴をあげる前に、悲鳴の表情を見せることで、自分が劣位であることを示している。

人間はこれをさらに一歩進めて、恐れがなくとも相手の顔を見ながら前もってこの表情をするようになった。これがほほ笑みだ。自ら進んで劣位の表情を見せることで、敵意はありません、仲良くしましょう、という信号を発しているのだ。

いわば儀式なのでサルほど強い表情を見せる必要はなく、歯をちらっと見せる程度でOKだ。

今から約百年前、ファンホーフの祖父が動物園を造った。現在アーネム市にあるバーハース動物園だ。年間約150万人が訪れ、特にチンパンジーのコロニーが有名だ。

コロニーは1971年に、当時の園長だったヤンの弟のアントンとヤン自身が設立した。チンパンジー同士の争いを避けるため少数を飼育するというそれまでの通例を破り、自然と同じような集団を動物園で飼育するはしりとなった。ヤンの弟子フランス・ドゥ・バールの著書『政治をするサル』は、ここを舞台にしたチンパンジーたちの権力闘争を描き、世界的なベストセラーとなった。

バーハース動物園では4月、テレビ会社が番組の撮影のために飛ばしたドローンをチンパンジーが「撃墜」する事件があった。ドローンを見つけたチンパンジーたちが木に登り、木の枝を使って、この怪しげな飛行物体をたたき落としたのだ。

落とされたドローンが撮った映像はユーチューブに流れ、5日間で400万人が視聴した。その後、日本の官邸の屋上でドローンが見つかるとは予想もしていなかった。

学会後に、もうひとつ有名な動物園を訪れた。アッペルドルン市にあるアッペンヒュール。「猿の楽園」という意味で、サルを専門に展示している。この動物園がすばらしいのはいっさいおりがなく、すべて放し飼いであることだ。オランダらしく運河を縦横に張り巡らして島を造り、橋を鉄製にして微弱な電流を流している。足裏にびりっと来るので、サルは橋を渡らない。

わたしが所長を無給で兼務している愛知県犬山市の公益財団法人、日本モンキーセンターの動物園も同じ発想だ。リスザルやワオキツネザルを放し飼いにしている。

日本には山があり、森があり、野生のサルがいる。あまり意識されないが、北米やヨーロッパにサルはいない。オランダザル、イギリスザル、アメリカザルは存在しない。サルの自然な姿を見られるというのは、じつはとても幸運なことだ。オランダでそれを改めてかみしめた。

日経新聞連載新聞記事『「笑い」「ほほ笑み」異なる進化』
出典:日経新聞2015年05月24日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第2回『「笑い」「ほほ笑み」異なる進化』