京都のアインシュタイン
ノーベル賞を受賞した直後のアインシュタイン(右)に京都を案内する西堀栄三郎

今年のノーベル賞が出そろった。生理学・医学賞の大村智さん、物理学賞の梶田隆章さんと、日本人の受賞が続いた。すばらしいことである。

わたしが京都大学の大学院生のころ、福井謙一さんの受賞があった。下宿のおばさんが「今度、隣の町内の人がノーベル賞をもらわはった」と言ったのを思い出す。京大の先生が多く住んでいた地域ならではの表現だ。

ノーベル賞といえば、アルバート・アインシュタインも受賞した。1922年、日本への船旅の途中でその知らせを受けたという。今ほどの社会現象にはなっていなかったが、1カ月半におよぶ日本滞在の間、各地で熱狂的な歓迎を受けたそうだ。

日本人初のノーベル物理学賞を受けることになる湯川秀樹さんの自叙伝「旅人」にも、アインシュタインの京都来訪時のときめきが書かれている。当時、京都府立一中の生徒だった。のちに日本人で2人目の受賞者となる朝永振一郎さんは1学年上である。きっと彼らの心に、科学への憧憬が育まれたことだろう。

アインシュタインの京都滞在時に街を案内したのが、当時旧制第三高等学校(三高)の生徒だった西堀栄三郎さんだ。後に登山家でかつ工学者となる西堀さんの足跡を調べているときに、アインシュタインとの記念写真に出合った。

ご令息のお話によると、西堀さんのお兄さんが貿易商を営んでおり、外務省とのつながりがあった。そのため京都でのアインシュタインの接遇を依頼され、弟の西堀さんにお鉢がまわってきたのだという。

アインシュタインと連れ立って歩く青年の姿を想う。まだだれも見ていないものを見る、だれも考えていないことを考える、そうした科学に必須なパイオニアワーク(初登頂の精神)を体感したことだろう。

西堀さんは長じて京都大学の助教授になり、さらに東芝に転出し、工学の分野で多岐にわたる才能を発揮した。昔のラジオに装備されていた真空管「ソラ」の発明者である。日本初の南極越冬隊の隊長をつとめ、原子力船「むつ」の開発にも携わった。「品質管理」という学問を日本で確立した人でもある。

わたしは1973年に、西堀さんと一緒にネパールヒマラヤの未踏峰ヤルンカン(カンチェンジュンガ西峰)に行った。西堀さんが隊長で70歳、わたしが最年少で22歳。隊長の小姓のような役回りで一緒に歩いた。

西堀さんはいつも道具箱を持ち歩いていた。キャンプ地では水くみがひとしごとだが、その道具箱から細く長いホースを取り出した。水源からキッチン用のテントまで水をひくという。まず距離を歩測して、次にチューブの直径から、細い管を水が通るときの抵抗の計算を始めた。どれくらいの長さにすると、ちょうどよくチョロチョロ流れるかを考えるのだ。

3週間歩き続けて、氷河上5500メートル地点のベースキャンプまで登った。酸素は平地の約半分。西堀さんは倒れこむようにテントに入った。その夜、テントのまわりをごそごそ歩きまわる音がする。見ると西堀さんだ。「先生、何をしているんですか」とたずねると、「うちゅうじんをつかまえているんや」と言う。てっきり低酸素で頭がおかしくなったと思った。

見ると、あちらこちらの岩の上に、小さなガラス板を置いている。表には薄くポマードが塗ってある。標高が高い山の上には下界の塵は上がって来ないので、空から降ってくる「宇宙塵」だけを捕まえることができるのだ。

かつて南極越冬隊にいたとき、雪上車で走っていると黒いものが落ちていた。すべて隕石(いんせき)で、それがきっかけで隕石という宇宙からの手紙におおいに興味をもったという。

物理学賞を受賞した梶田さんは個人的にも存じ上げているが、温和ですばらしい方だ。スーパーカミオカンデの次の設備を造って重力波を捉えるという話をお聞きした。若い学生たちが身近な受賞者から、科学への興味をかきたてられる。それがまた次の世代へと波及する。そんな夢を思い描いた。

日経新聞連載新聞記事『ノーベル賞が伝えること』
出典:日経新聞2015年10月18日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第22回『ノーベル賞が伝えること』