Image Credit: Tetsuro Matsuzawa /Primate Research Institute, Kyoto University アブラヤシの種を叩き割る母親チンパンジーと息子
群れの最年少、4歳の男の子ファンワ(右)と石器を使ってアブラヤシの種を叩き割る母親

昨年12月の半ばから今年の年初にかけて、西アフリカ、ギニアの野生チンパンジーを見てきた。ギニアではここ2年、エボラ出血熱が猛威を振るったが、新規患者がゼロになったことを見定めて渡航した。

エボラ出血熱は1976年に初めて確認された。過去に何度かコンゴ盆地の奥深く、人の交流が少ない地域で流行したが、強毒性のウイルスなので患者があっという間に死んでしまい、それ以上は広がらなかった。

今回はギニアで発生し、首都コナクリに飛び火して西アフリカ全域に広がった。世界保健機関(WHO)が終息宣言を出したが、その後も患者が報告されている。

野生チンパンジーがすむボッソヴ村には、幸いエボラ出血熱は侵入しなかった。チンパンジーたちも無事だった。

30年前、最初にここを訪れたときのことを思い出す。チンパンジーの知性についてのプロジェクトの成果が科学誌ネイチャーに掲載され、研究は一区切りを迎えていた。新たな発展のためには、野生チンパンジーを見る必要があると考えた。

幸い京都大学霊長類研究所の先輩の杉山幸丸先生がボッソウで調査をしており、誘ってくださった。朝に隣国リベリアの首都モンロビアから乗り合いバスに乗り、国境のラムコという鉱山町まで行った。そこからタクシトをチャーターし、国境を越えてギニアに入った。夕方にボッソウに着いた。

翌朝、チンパンジーを見に行った。最初の出会いを忘れられない。現地語でバンと呼ばれる聖なる丘の頂上付近に、彼らはいた。朝日を浴びて、漆黒の毛並みが輝く。大きな体が、頭上の枝を渡っていく。小さな子どもを連れた母親だった。我を忘れて見とれた。

ふと気が付くと、一緒に行った杉山先生がしゃがみこんで震えている。ようすがおかしい。マラリアだった。宿に戻って寝かせたが、額の手ぬぐいがすぐに乾くほどの高熱が間欠的に続く。

ンゼレコレという近くの町まで行くと、ソ連の軍用機が飛んでいた。かつてギニアが一国社会主義政策を採っていだ時代の名残だ。杉山先生をこれに乗せ、日本に帰した。初めてのアフリカで、いきなりひとりぼっちになってしまった。

グアノとティノという2人の現地助手を先生にして、森やチンパンジーのことを学んだ。ある晩のこと、ざっざっざっというたくさんの人の足音が聞こえた。だんだん近づいてくる。ついに、家のまわりをぐるぐる回り始めた。

現地に住むマノン人は昔は首狩り族だった、というティノの話を思い出した。音を立てないように寝袋を出て、靴をはいてヘッドランプを用意し、いつでも逃げ出せるようにした。夜が白み始めるころ、音は遠ざかっていった。

朝になってティノに聞くと、高齢の女性が亡くなり、葬儀の行進だったそうだ。間借りしていたのが村長の家だったので、ここを中心に練り歩いていたという。

当時ボッソウに電気はなく、夜は真っ暗闇だった。今日、調査拠点には太陽電池で明かりがともる。助手たちは携帯電話でショートメッセージをやりとりし、Wi-fiでインターネットをしている。チンパンジーも人になれ、すぐ近くで見られるようになった。

だが問題もある。人の増加が著しく、ボッソウのまわりはすべて耕地かサバンナで、チンパンジーがすむ森は失われた。チンパンジーは父系社会で、男性が群れに残り、思春期を迎えた女性が外に出て別の群れに加わる。杉山先生がボッソウの群れの観察を始めてから40年になるが、その間、ただの1人も外部から女性が入ってこなかった。

この群れで次々と子どもを産んでいた女性たちはみな高齢化してしまい、もはや子どもは生まれない。群れは8人にまで減ってしまった。

ボッソウのチンパンジーたちは、石を使ってアブラヤシの堅い種をたたき割り、中の核を取り出して食べる。群れがなくなれば、この石器を使う文化も途絶えてしまう。さて、この先どうしていったらよいのかと、思い悩む旅だった。

日経新聞連載新聞記事『危機迫るボッソウの群れ』
出典:日経新聞2016年01月24日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第36回『危機迫るボッソウの群れ』