赤い色を見て、10個の漢字から「赤」という漢字を選んで指で触るチンパンジーのアイ
赤い色を見て、10個の漢字から「赤」という漢字を選んで指で触るチンパンジーのアイ 中村美穂氏提供

人間を他の動物から際立たせている特徴のひとつが言語だ。1960~80年代、欧米の心理学者がチンパンジーを飼育して、手話を教える研究をした。チンパンジーは数百の手話をおぽえた。

チンパンジーは、人間の言語をどこまで学べるのだろうか。アイというチンパンジーを研究のパートナーにしてチンパンジーの知性を探る「アイ・プロジェクト」のなかで、言語を教える研究に取り組んだ。チンパンジーが人間と同じように発声できないことはすでに知られていたので、文字を教えることを試みた。

まず、コップやロープなど身の回りの8つの品物と、赤・橙・黄・緑・青・茶・桃・紫・白・灰・黒の11色を表す図形文字を教えた。ひし形に横線を重ねた図形は「赤」、円に斜めの線は「ロープ」という具合だ。この対応を覚えたら、次にアラビア数字で数を表現することを教えた。

今では、アイは0から19までの数を理解できる。26字のアルファベットを識別し、なかまの人間やチンパンジーの名前をイニシャル1文字で表すこともできる。

最初のころ、アイはコンピューターのキーボードを使っていた。現在はモニターがタッチパネルになっていて、チンパンジーが、モニターに表れた映像や文字に指で直接触れて入力する。はたから見ていると、まるでコンピューターゲームをしているように見える。

ただ図形文字では、チンパンジーが何をしているのかがわかりにくい。色を表す文字として、人間が使う漢字を導入した。たとえば赤い色を画面に表示し、チンパンジーが10個の漢字の中から赤という字を選べば正解だ。

チャイムが鳴り、小指の先ほどのリンゴ片が出てくる。野生チンパンジーが好むアンティアーリスの実くらいの大きさだ。アフリカの森で実を手に入れるのと、ほぼ同じペースで勉強が進む。

今ではアイを含めた7人のチンパンジーが、色と漢字を対応させる課題に取り組んでいる。

研究からわかったことが3つある。第1に、チンパンジーなら誰でも漢字を認識できる。アイが特別賢いからできるというわけではない。第2に学習には年齢が関係している。若いうちは学びやすいが、おとなになってからではむずかしい。

第3に、色を漢字で表現できるからと言って、漢字を色で表現できるとは限らない。たとえば、赤い色を画面に出して、赤・緑・青の3つの漢字の中から正答を選ぶ課題から始めたとしよう。もちろん、「赤」という漢字を選べば正解だ。

緑色なら「緑」、青色なら「青」と、色を見て対応する漢字を選べるようになったところで、課題の順番を入れ替えた。まず「赤」の漢字を見せてから、赤、緑、青の3色を画面に出して、対応する漢字を選んでもらった。

すると、チンパンジーは戸惑い、まちがえた。チンパンジーにとって、これはむずかしい課題なのだ。日々の勉強を重ねていけばできるようになるが、最初のうちは対処できない。

当初、チンパンジーがなぜ戸惑うのかわからなかった。人間なら、赤い色をみて「赤」の漢字が選べるなら、「赤」という漢字を見て赤い色を選ぶこともできるだろう。

しかし、逆は必ずしも真ではない。チンパンジーにしてみれば、赤い色が画面に出てきたときに「赤」という漢字を選ぶ、ということを学習したのだ。「赤」という漢字が出てきたときにどうするかは、まだ教わっていないからわからない。

人間は推論する。「赤」という漢字が画面に出てきた、という新しい場面でも、赤い色を選べる。それまでの経験から、赤という色と「赤」という漢字が等価だと自然に推論しているからだ。

そもそも「赤」という漢字は、赤という色をまったく連想させない。逆に、赤という色から、「赤」という漢字が自然に想起されることもない。色と漢字の間には、恣意的なつながりしかない。

見かけがまったく違う2つの事象を等価に扱える。それがチンパンジーにはない人間の言語の本質のひとつなのである。

日経新聞連載新聞記事『推論 人間の言語の本質』
出典:日経新聞2016年03月06日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第42回『推論 人間の言語の本質』