チンパンジーの子どもが、人間のおとなよりも知的に優れている面がある。それは、見たものを一瞬でおぼえる瞬間記憶の力だ。人間には到底おぼえきれないたくさんの数字をチンパンジーの子どもは楽々とおぼえることが、われわれの研究から明らかになった。

研究には3組のチンパンジーの親子に参加してもらった。子どもたちが4歳(人間でいえば6歳)のころから数字を教えた。1と2から始め、おぼえたら3に進み、順次9まで増やした。

画面にまず白丸が出て、それを指で触ると画面のでたらめな場所に1から9までの数字が出てくる。これを1、2、3、…9と順に触ることができれば正解だ。毎日30分ほどの勉強を続けたら、子どもたちは約6か月でできるようになった。おとなはやや時間がかかったが、同様にできるようになった。

1から9までの順序をおぼえたところで、人間とチンパンジーの記憶を比較した。最初に画面に複数の数字が表れる。1番小さい数を触ると、他の数字がすべて白い四角形に置き換わり、マスクされてしまう。マスクに隠された数字を思い出し、小さい順に触ることができれば正解だ。

数字が5個くらいまでなら、人間もチンパンジーも記憶できる。ところが1から9まで、9個全部が表示されるとむずかしい。画面を10秒以上ずっと見続けて、9個の数字がどこにあるかをよくおぼえないといけない。おぼえたつもりで1を触ると、残る8つがパッと白い四角形になる。途端に頭も真っ白になる。

人間の子どもからおとなまで調べたが、9つの数字をおぼえるのにかかる時間は、チンパンジーのおとなと大差なかった。だが、チンパンジーの子ども3人は皆、人間のおとなよりよくできた。

もっとも熟達したアユムは、9個の数字を記憶して最初の1を触るまでに、0.5秒しかかからない。しかもほとんど間違えない。この速さで正確に課題をこなせる人間はいなかった。

研究結果を米科学誌「カレントバイオロジー」に報告した 1ところ、欧米から称賛とともに疑念と不満の声があがった。人間と動物という二分法に立つキリスト教的世界観では、人間がそれ以外の動物に知的に劣ることが許せないようだ。特別なしかけがあるのではないか、訓練のせいだろうという。

そこで課題をさらに難しくしてみた。でたらめに選んだ数字7個を画面に一瞬映し出し、0.2秒後に全部を白い四角形に置き換え、数字の小さい順に触ってもらう。京大生に挑戦してもらったが、全員、1つも正解できなかった。でもアユムはらくらく正解した。

正答率が0%のものをいかに訓練しても成績は伸びない。人間にはできないが、チンパンジーにはできる記憶の課題がある。今ではようやく世界にその事実が受け入れられるようになった。

Image Credit: Tetsuro Matsuzawa /Primate Research Institute, Kyoto University

チンパンジーに人間の言葉や数字などを教える研究が欧米で始まって、ちょうど半世紀ほどたった。そのなかで最も人々が驚いたのが、この瞬間記憶の研究だ。人間ができることの一部をチンパンジーも学べるというのではなく、人間には不可能な知的作業をチンパンジーがすることを、世界で初めて示した。

人間は進化の途上で、一瞬だけ見たものを正確に記憶する能力を失った。代わりに見たものに名前をつけ、それを記憶するようになった。

森でシカを見たとしよう。額に白い斑点があり茶色の背中で脚が黒かった。人間はそうした細部を瞬間的に記憶することはできないが、それは「シカだった」と記憶し、仲間の待つ露営地に持ち帰ることができる。その経験を身振りやゆびさしや声で仲間に伝え、協力して狩りをし、獲物を女や子どもたちに分けることもできる。

瞬間記憶を失う代わりに、自分が体験したことを情報として仲間と分かち合う能力が発達した。そこに人間の言語の本質があるといえるだろう。

京都大学総合博物館で同じ課題を体験できる。次のサイトの右上にある紹介ビデオをご覧頂きたい。https://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/

日経新聞連載新聞記事『瞬間記憶と言語の発達』
出典:日経新聞2016年03月13日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第43回『瞬間記憶と言語の発達』