最終講義を終えて、2人の孫から花束をもらった(3月12日、京都大学)

3月12日、京都大学の百周年時計台記念館で最終講義をした。26歳のときに京大霊長類研究所の助手に採用されてからずっと同じ職場で働いてきて、昨年65歳を迎え、3月末で定年退職となる。4月からは、京大に新設される高等研究院で研究を続ける。この機に自らの研究を振り返り、科学を発展させる思考法とは何かを考えてみたい。

科学は偶然と必然の両方に導かれて進むものだと思う。大学に入る年、大学紛争のために東京大学の入試がなくなり、京大に行った。哲学を志し、せっかくだから京都学派を創始した西田幾多郎の哲学を勉強しようと考えたが、京大でも授業は止まっていた。

それで「学部は山岳部です」という登山ばかりの暮らしを送るようになり、様々な学問を独習した。その中で心理学に出会って興味を持ち、大学院に進んだ。

博士課程の1年生のとき、霊長類研究所の助手に応募してたまたま採用された。師であった室伏靖子先生がチンパンジーの言語習得の研究を始め、チンパンジーが霊長類研にやってきた。先輩研究者が留学などで忙しかったので、私に研究のおはちが回ってきた。このときに始まったアイ・プロジェクトが、38年たった今も続いている。

こうした経緯は、すべて自分の努力というよりは偶然の出来事で、いわば神様のおぼしめしだ。

一方、必然というか、自らの意思で切り開いてきた部分もある。京大山岳部には「初登頂の精神」を尊ぶ気風がある。だれも登っていない頂を目指す。だれも見たことがないものを見る。だれも考えていないことを考える。物ごとにはすべて始まりがあり、それを築いた価値は永遠に消えない。学問でも、どうしたら初めての世界にたどりつけるかを考えた。

デカルトが専門の野田又夫先生は、哲学の使命は2つあると言った。第1はこの世界はどうなっているかの解明だ。今日の科学がめざすものである。第2は、人間はどうふるまわなければいけないかを示すことだ。今日の倫理学である。

自分なりの学問を考えているうちに、哲学には第3の使命があると気づいた。「人間とは何か」を明らかにすることだ。この世界の理解と、人間がすべきことのつながりを考えるには、行為の主体となる人間そのものの理解が不可欠である。

同じ世界に暮らしていても、イヌにはわれわれが見ている色は見えない。だが、われわれには聞こえない高周波音を感知できる。では、人間の認識にはどのような制約があるのだろうか。

生物学者フォン・ユクスキュルは、動物が知覚し作用する世界がその動物にとっての環境であるという「環境世界」の考え方をとなえた。私も、人間にとっての環境世界に近いものを明らかにしようと考えた。

そんな試みの中から生まれたのが「比較認知科学」という新しい学問領域だ。背後にあるのは、哲学で学んだ弁証法の手法である。古代ギリシャの対話術に遡る方法で、対象を分割して弁別し、それをふたたび統合し総合することをいう。ヘーゲル哲学が有名で、「正」とその対立である「反」を通して、その総合すなわち「合」に至る論理的発展を指す。

比較認知科学では、心理学という文系の学問に、霊長類学という理系の学問を対置して、その総合によって人間の新しい理解に到達することを目指した。

具体的には、人間にもっとも近いチンパンジーにさまざまな課題を与えて認知のあり方を研究し、毎年アフリカに行って野生の生態を観察した。研究室での実験と野外での観察を対置し総合することで、チンパンジーのまるごと全体を理解しようと努めてきた。

現代科学の主流は、物ごとを細部に分解して理解することだ。心の働きを脳に、脳を神経細胞に、細胞を神経伝達物質や遺伝子に還元する。だが、遺伝子が解明されれば人間の心の働きがわかるだろうか? より微視的に解析する手法があるなら、より巨視的にまとめる視点が必要になる。それらを総合する弁証法の思想によって、新しい科学が開かれるだろう。

日経新聞連載新聞記事『弁証法で開く新たな科学』
出典:日経新聞2016年03月20日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第44回『弁証法で開く新たな科学』