ラルフ・アドルフス教授の脳と心の話に聴き入る
ラルフ・アドルフス教授の脳と心の話に聴き入る=京都大学高等研究院提供

この4月、京都大学に高等研究院が発足した。「数学のノーベル賞」といわれるフィールズ賞を受賞した森重文さんと私の2人で出発した。国際連携を視野に先端研究に特化した新しい組織だ。その期待に手探りで応えたい。そう考えて、セミナーを主催した。

米カリフォルニア工科大学のラルフ・アドルフス教授を第1回の講師に迎えた。京大の客員教授として日本に滞在している。神経科学と認知科学の融合領域が専門だ。彼がセミナーで話した脳と心の最新の研究成果を紹介したい。

脳の側頭葉と呼ぶ部分の内側の深い奥のところに、一対のアーモンドの形をした神経細胞の集まりがある。扁桃体と呼ばれる。

先天的に扁桃体が欠けている遺伝病の患者がいる。約100年前に見つかって、まだ400例ほどしか確認されていない珍しい病気だ。染色体にあるECM1という遺伝子の異常が原因だとわかっている。扁桃体がうまく働かない患者にアドルフス教授らのチームは目をつけた。

この病気の患者は恐怖を感じない。ヘビやクモ、ホラー映画を見ても怖がらない。アドルフス教授らの研究によると、喜びや悲しみといった感情については健常者と同じように持っている。さらに扁桃体で顔の識別はできるが、顔の中でも特に重要な視線の方向については区別できない。それは脳の皮質の役割だとわかった。

動物の脳の場合、特定の部位を傷つけて、そこがどういう働きをもつかを探る損傷実験が長年繰り返されてきた。しかし人間だと傷つけるわけにはいかない。アドルフス教授の研究は珍しい遺伝病を素材にして、扁桃体の働きを解析するユニークな試みだといえる。

彼の目下の関心は社会的知性を担う脳のしくみだ。扁桃体から始まって脳の働き全体をとらえようとしている。人の行動を観察すれば、なぜそうするのかを推論できる。他者の社会的行動を見てなぜなのかを考える。

では、脳のどこが働いているのか。機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)という装置を使った。赤血球中のヘモグロビンが酸素と結びつくのを調べることで、活発に働く脳の部位がわかる。

被験者にさまざまな写真を見せて質問する。手に持ったスイッチを押すことで「はい」か「いいえ」と答える。例えば、「この人は愛情深いですか」という問いが出された後に、子どもを抱いてほほ笑む男性の写真を見せる。この場合は「はい」が正解だ。

また「愛情深い?」と聞いて、ルーレットで大当たりして大喜びする女性の写真を見せる。笑顔だが「いいえ」が正解だ。写真に写る人の気持ちを理解しないといけない。心理学で社会的認知と呼ぶ課題である。

これとは別に、非社会的認知という課題がある。「これは大雨の結果ですか」という問いが出された後に「雨どいから水が勢いよく流れている写真」を見せる。「はい」が正解だ。「大雨の結果?」と聞いて「海に浮かぶ氷山の写真」を見せられた場合は「いいえ」と答えるのが正解だ。写真を見て質問に答えるのは同じだが、人の気持ちを理解する必要はない。

こうした写真を区別しているときに脳の血流は微妙に変化する。これをfMRIでとらえる。社会的認知に関係する成果として、脳の4つの場所が同時にネットワークのように連携して働くことがわかった。中でも、前頭前野の腹内側部という領域が社会的認知では重要な働きをしていることを突き止めた。

今回のセミナーは吉田泉殿と呼ぶ民家風の建物が会場で、39人が集った。神経科学と認知科学の分野を代表する教授たち、若手研究者のポストドクター、大学院生のほか、3人だけ学部の学生も参加した。およそ3分の1が外国人研究者だ。

吉田泉殿は畳に座って掘りごたつに足を伸ばして会議ができる。1時間の講演に続いて質疑が1時間、隣の洋室で軽食を取りながらの歓談がさらに1時間半続いた。こうした親密なやりとりから、新しい学問の芽が生まれることを期待している。

日経新聞連載新聞記事『人の心 脳の働きで理解』
出典:日経新聞2016年05月08日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第51回『人の心 脳の働きで理解』