今西錦司は伊谷純一郎とアフリカ探検に転身した
マナスル登頂のあと今西錦司(手前)は伊谷純一郎(左)とアフリカ探検に転身した (京都大学霊長類研究所提供)

1956年5月9日、ヒマラヤ山脈の未踏峰マナスル(8163メートル)に日本の山岳隊が登頂した。8000メートルを超す山は世界に14しかない。そのひとつを日本が占める快挙だった。初登頂から60年の祝典が8日、皇太子さまが出席される中、東京都内で開かれた。これを機にマナスルと京都大学の歴史をひもとくうちに、登山と科学研究が精神の双子だということに改めて気がついた。

マナスル登頂計画を練ったのは、日本の霊長類研究の創始者である今西錦司(1902~1992年)ら京大のグループだ。彼の著書「ヒマラヤを語る」の中で登山についてこう記している。「山登りというものは4つの段階を経て発展する」と。

第1の段階は山の発見だ。どの山を登るか目標を定める。第2の段階は山の探検だ。どこから登れるのかを探る。第3の段階はその山への初登頂である。第4の段階は初登頂した山に別のルートから登るバリエーションだ。

今西は51年、ネパールにあるマナスルを目標にすえた。その理由は、わずかな資料しかなかったからだ。8000メートル峰の中から、すでに他国が遠征隊を送った山は候補からはずした。だれにも気兼ねなく遠征隊を送れる山がよいと考えた。

山の探検の第一歩は登山許可の取得だ。今西は盟友の西堀栄三郎(1903~1989年)に託した。西堀は工業製品の品質管理の先駆躯者で探検家、英語にも堪能だった。西堀は1952年初頭、インド科学会議への参加を口実に交渉に乗り出した。今西に送った手紙やメモなど約50通が残っており「西堀書簡」と呼ばれる。

当時、ネパール外交の実権をインドが握っていた。インドのネール首相に会い、戦後初めての日本人としてネパールに入り、9日間の滞在中に国王らにマナスル登山の許可を直訴した。こうした努力が実り、5月8日付の書簡でマナスル登山の許可が出た。

その年の秋、今西ら5人の登山家がマナスルを訪れ登路を探った。一周して、北東面からのルートが登頂の可能性が高いと判断した。突際に登頂したのは計画を京大から委譲された日本山岳会の遠征隊だ。3回目の眺戦で1956年に初登頂に成功した。マナスルはその後も多くの日本人登山家をひきつけ、ルートを変えたり無酸素で登山したりと、様々なバリエーションで登頂されている。

「発見→探検→初登頂→バリエーション」という山登りの4つの段階は、そのまま科学研究にあてはまるだろう。何を研究するのか。まず目標を定める。次に、先行する文献や資料にあたり、実際に予備的な研究をして課題解決の道を探る。そしていよいよ初登頂に相当する新発見や新発明をする。さらにバリエーションとして、別の角度からその研究を深める。

この4段階からなるひとつのサイクルの結果として、課題を多角的に深めた科学論文が次々と出るだろう。ただし論文が量産されるようになったら、その研究テーマは終わりに近いと自戒できる。成し遂げた研究成果を基盤にしつつ、斬新な発想で次の目標を設定し、新たな研究サイクルを立ち上げることが大切だ。

マナスルで登山の4段階を進めて、今西や西堀らは新たな探検の目標に向かった。今西は1955年にカラコルム山脈の4大氷河の連続調査をした。高度を競うのではなく、地図の空白部の探検へと進んだのである。58年に初めてアフリカに出かけ、個体識別にもとづく類人猿の長期野外調査を開始し、その成果は霊長類学の確立につながった。西堀は1956年に南極へ出発し、日本初の南極越冬隊の隊長を務めた。そして原子力船「むつ」の開発へと向かった。

フランスの著名な登山家モーリス・エルゾーグはアンナプルナ(8091メートル)に初登頂し、「処女峰アンナプルナ—最初の8000m峰登頂」という著書を書いた。その末尾を「人生にはもうひとつのアンナプルナがある」と締めくくっている。登山でも科学研究でも、さらには何であれ、人それぞれに違った頂があるだろう。そうした目標に向かって、知恵と力と経験を結集して歩み統けるのが大切なのだと思う。

敬称略

日経新聞連載新聞記事『登山と科学研究の共通点』
出典:日経新聞2016年05月15日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第52回『登山と科学研究の共通点』