Image Credit: Tetsuro Matsuzawa /Primate Research Institute, Kyoto University チンパンジーのアキラと見つめ合うグドール博士
チンパンジーのアキラと見つめ合うグドール博士(京都大学霊長類研究所提供)

7月24日~29日、横浜市で国際心理学会議が開催される。心理学では最も古い国際学会で、93カ国から約9000人が参加する見込みだ。その招待講演者の一人として、ジェーン・グドールさんが3年ぶりに来日する。野生チンパンジーの長期観察を通じて、様々な生態を明らかにした霊長類研究者だ。彼女から学んだことを伝えたい。

英国生まれのジェーンは犬や馬などが好きで、子どものころは「ドリトル先生」の物語を読みふけった。どうしてもアフリカの動物たちを見たい。アルバイトをして蓄えたお金で、ケニアで農場を営む友人を夏休みに訪れた。そこで高名な化石人類学者のルイス・リーキー博士と出会った。

リーキー博士は世界最古の旧石器文化遺跡オルドバイ遺跡の研究で知られ、野生チンパンジーの研究を通じて共通祖先のころの人間の暮らしを理解できると考えた。その研究では、対象に注ぐ愛情こそが重要だ。子育てに似ている。若くて健康な女性がよい。選ばれたのがジェーンだった。

1960年、ジェーンは26歳のときに、タンザニアのゴンベ保護区に降り立った。餌付けしてチンパンジーを至近距離から粘り強く観察して新たな事実を発見し、彼らへの見方を大きく変えた。例えば道具を使うこと。シロアリの塚の穴に、細い草の茎やつるを差し込み、シロアリをとって食べる。道具を使うのは人間だけだと当時は思われていた。良い緊密な母子関係やイノシシを狩って食べることなど、彼女の発見だ。

私がジェーンと最初に会ったのは86年だった。彼女の「野生チンパンジーの世界」が出版され、米シカゴに世界中の研究者が集った。私は文字を理解して数字を使えるチンパンジー・アイの研究成果を話した。

説明を終えると、ジェーンが質問した。「ところでアイはふだんどうしているの?」。質問の意図はすぐにわかった。研究所のチンパンジーは野生とは違うくらしを強いられる。その福祉にどう配慮をしているのかという意味だ。私は「ふだんは仲間たちと一緒に運動場で暮らしている。勉強のときだけ名前を呼んで、彼らの自由意思でやってくる」と答えた。ジェーンは微笑みながらうなずいてくれた。

1990年にジェーンは「日本のノーベル賞」といわれる京都賞を受賞した。彼女が来日するとき、私は付き添って講演での通訳を引き受ける。

近年、体内に存在して人間と共生する細菌への関心が高まっている。こうした常在菌の遺伝子を解析することで、健康や病気への影響、生活ぶりなどがわかるからだ。野生チンパンジーでも研究が進んでおり、食生活はもちろん集団や仲間との交流が深く関係していることがわかってきた。

ゴンベ保護区の中心的な研究地域のカサケラにすむ群れを調べた結果が2016年1月に米科学誌サイエンスに報告された。50人のチンパンジーについて行動を観察したうえで、ふんを集め、腸内細菌の種類と、それがどう変化したかを9年間にわたって調べた。

チンパンジーは果実が実る雨期は集団ですごし、盛んにグルーミングするなど交流が増える。エサが少なくなる乾期になると、小さなグループか単独ですごす時間が多くなる。解析の結果、雨期に腸内細菌の種類が増え、菌の構成がよく似ていた。一緒に暮らす親子は季節にかかわらず似ていた。腸内細菌も親から子へ引き継がれる。

ジェーンが研究を始めてから50年以上、ゴンベ保護区ではほぼ中断することなくチンパンジーの観察が続いている。家系の情報や行動観察の地道な蓄積があったからこそ、遺伝子解析という最新技術が生かせるのだ。

国連の平和大使も務めるジェーンは年間約300日も世界各地で講演しているそうだ。7月の横浜市の学会での講演で、若い人々にこう訴えるはずだ。「人間のもつ知恵と熱意と希望が、そしてひとりひとりが、この世界を変えられる」と。

興味のある方はNPO法人、ジエーン・グドール・インスティテュートのホームページ(http://www.janegoodall.org/)を参照してほしい。

日経新聞連載新聞記事『地道な観察 先端研究の礎』
出典:日経新聞2016年05月22日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第53回『地道な観察 先端研究の礎』