京都大学に「生物学のフロンティア」と題した授業がある。生物分野の教員が、一人一回だけ授業をする。今年はわたしの次の週がゴリラ研究の山極壽一総長、その次の週がiPS細胞の山中伸弥さんという順番だ。

聞いているのは、入学して間もない一回生たちだ。私語する者も、携帯電話をいじる者も、眠る者もいない。緊張感に満ちた90分間だった。チンパンジー研究の話をしながら、自分自身が大学の一回生だったころを思い出した。

当時は学生紛争の真っ盛りだった。わたしは東京の高校生だったが、東京大学の入試が紛争のためなくなったので京大に行った。

京大もバリケードで封鎖されていたので、授業はなかった。そこで山岳部に入り、山登りの日々を過ごした。「学部はどちらですか」「山岳部です」という生活である。

やがて、授業が再開された。当時、数学に森毅という有名な教授がいらした。わくわくした気持ちで講義に出ると、初回の冒頭で「なぜ講義に来たのですか」。えっ? 目が点になった。

森先生は続けて「こんな天気の良い日に、わたしの講義など聞く必要はない」と断じ、続けて「京都にいったいいくつの寺社仏閣があるか知っていますか」と聞いた。単位が必要ならばあげるから、天気の良い日は外に出て京都の街を見てきなさい、とおっしゃるのである。結局、講義に出たのは初回だけで、あとは先生の言うとおりにした。

教育学に鰺坂二夫という先生がおられた。退官したのちに甲南女子大学の学長をつとめた方である。ペスタロッチの教育思想についての講義だったと思うが、話がたいへん印象的で、食い入るように聞いた。講義で人を感動させることができる、というその事実に感動した。だが山登りに忙しかったので、授業にはあまり出なかった。

一回生が終わるころ、日本人として最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生が定年退官を迎えた。理学部で退官講義があるというので、物見高く、数学専攻の友人と連れ立って聞きに行った。大きな講義室にぎっしりと聴衆が入っていたが、しーんと静まり返っていた。つばを飲み込む音が聞こえそうだった。

当然、ノーベル賞の受賞理由となった中間子の理論についてお話しされると思ったら、そうではなく、今まさに取り組んでいる問題についての講義だった。「マックスウェルの悪魔」という、熱力学に関係する話をしているということだけはわかったが、門外漢にはさっぱり理解できない。ただ、そこに未知の問題があり、それに挑む人たちがいるのだ、ということは深く実感できた。

講義室を後にし、一緒に行った友人と連れだって歩いた。二人とも言葉が出てこない。押し黙ったままである。思えばともに19歳。学問の重みを受け止めることで精一杯だったのだと思う。

湯川先生が書かれた「旅人」という自伝がある。幼少期から、ノーベル賞のもととなる理論の着想を得た27歳までの人生を振り返った書である。先生は京大の学生だった。のちにノーベル物理学賞をもらう朝永振一郎先生と机を並べて学んだ。その湯川先生がもっとも熱心に聴講したのが、文学部で哲学を教えていた西田幾多郎先生の講義だったという。

西田先生は、授業は決して巧みではなかった。黒板の前を行ったり来たりしながら、ぼそぼそとつぶやくようにお話しされたという。それを一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる学生時代の湯川先生の姿を、自伝を読みながら思い浮かべた。

四十数年の時を隔てた今も、湯川先生の講義する姿を鮮明に思い出すことができる。森先生の声音も、鰺坂先生の温顔も、心底に焼き付いている。学恩というものがもしあるとしたら、それは授業の回数では測れまい。

「生物学のフロンティア」を受講したあまたの学生の中から、いつの日にか学問の先端を切り拓く者が育ってほしい。そう願いながら、一度限りの授業の教壇を降りた。

日経新聞連載新聞記事『心に残る一度きりの授業』
出典:日経新聞2015年06月28日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第7回『心に残る一度きりの授業』