5月、ポーランドを再訪した。最初の旅は一昨年、2週間かけ北から南まで講演してまわった。自然の豊かな国である。北のビアオビエージャの森にはヨーロッパ最後の野生バイソンがおり、朝もやの中をヘラジカが悠然と横切る。のどかな田園に街灯のようなものが林立し、見上げるとコウノトリが営巣していた。

アウシュビッツの強制収容所。ぎっしりと並んだベッドの間に、用を足す溝が掘られている

2度目の今回は、古都クラクフに滞在した。地動説で有名なコペルニクスが学んだこの街で開かれた科学祭に招かれ、一週間、どこにも行かず静かに過ごした。そして2年前に訪れ、消化しきれないままになっていたアウシュビッツのことを考えた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。この地にあった2つの収容所の跡地である。ナチス・ドイツの絶滅政策によって、数百万人といわれるユダヤやロマの人々が殺された。

ここに到着した人々は、すぐに働ける者とそうでない者とに選別された。働けない者は、シャワーを浴びると称して一室に集められた。天井から噴射されるのは、水ではなくツィクロンBという毒ガスだった。

死体を運びだして焼却し、あるいは穴を掘って埋めるのは、働ける者のしごとだった。粗末なベッドが上下左右に並んだ部屋に詰め込まれ、地面に掘られた一筋の溝にまたがって用を足した。

彼らを監視するのは、カポ(看守)と呼ばれる同じ囚人だった。ドイツ人は運営にかかわるほんの一握り。囚人が囚人を監視し、囚人を殺し、その死体の処理をした。殺すか、殺されるかのどちらかしかなかった。

同じ種に対する殺害は、生物進化の歴史の中で、どこに起源があるのだろうか。参考になる論文がある。アフリカ各地で野生チンパンジーの長期調査をしてきた研究チームが協力して科学誌「ネイチャー」に昨年発表したもので、チンパンジーがどれくらいチンパンジーを殺すか調査した 1

観察期間が最も長いのがタンザニアのゴンベで54年間。次が同マハレで49年間、3番目がわたしたちが見てきたギニアのボッソウで38年間だ。28カ所、合わせて428年間分の観察結果である。ボッソウでは1例も観察されていないので、たいした数にはならないと思っていたが、なんと152例もの殺害があった。

隣り合う群れ同士の抗争で相手を殺すことが多い。男性が殺し、男性が殺される。1対1ではない。平均すると8対1で、多数が犠牲者をなぶり殺す。殺されるのは、多くはなわばりを侵してきたよそ者だ。女性と食物をめぐる争いが原因と考えられる。殺しは普遍的で、同胞を殺すのはチンパンジーのもって生まれた本性だと、論文では結論づけている。

だが、チンパンジーにはなく、人間にはあるものがある。「殺人の教唆」である。

人間社会の場合、虐殺の背後には大抵、みずから手を染めない人間がいる。殺害をそそのかす。殺害するよう仕向ける。殺さないならお前を殺すぞと脅す。

人間は人間を道具として操ることができる。自らが激情にかられて殺すのではなく、他人に激情をもたせるように仕向けるのだ。人が持つ怒りや憎しみが向けられる先を巧みに操作する。

差別が差別を生み、囚人となった人が囚人をあやめる。人間の心は、幾重もの階層になっている。チンパンジーは殺しを命じない。自ら殺す。誰かを殺すよう命じるのは、人間だけである。

作家のヴィクトール・フランクルが、『夜と霧』という作品で強制収容所での体験をつづっている。妻子のすべてを失った体験を克明に描きながら、どこかに明るさがある。一体なぜだろう。

収容所で見た風景を思い出した。アウシュビッツで見上げた空は青かった。塀の外にはポーランドの田園風景が広がっていた。

人に大量虐殺を命じるのは人間だけだが、どんな現状にあっても、想像によって希望を持ち続けることができるのもまた人間だけである。遠く離れた家族を想う。苦しむ同胞に手を差し伸べる。悲惨さの中にこそ、きわだった人間のあかしがあるのだと思いあたった。

日経新聞連載新聞記事『殺しを命じるのは人だけ』
出典:日経新聞2015年07月12日朝刊  松沢哲郎教授連載「チンパンジーと博士の知の探検」第9回『殺しを命じるのは人だけ』