赤ちゃんの誕生

愛知県犬山市の日本モンキーセンター(JMC 本連載152回参照)に2014年7月25日, 14年ぶりとなるチンパンジーの赤ちゃんが誕生した。その男の子は,母親であるマルコの頭文字をもらいマモルと名付けられ,父親とともに3人で暮らしている。赤ちゃんの存在がこの家族に及ぼす影響を探るため,隣接する京都大学霊長類研究所の研究者たちが,1時間のビデオ撮影を毎週2回のペースで行っている。

ヒトの笑顔の発達

これまでヒトの胎児から5歳の幼児を対象に,笑顔の発達について研究してきた。最初に見られる笑顔はどのようなものだろうか。いつ頃から「楽しい,うれしいと感じているとは思えない場面」でも“ごまかし笑い”を見せるようになるのか。そして笑顔の使われ方に文化差があるか。こういった点に焦点をあてて観察してきた。

ヒトの胎児は在胎20週前後から笑顔のような表情を見せはじめ,出生後しばらくは睡眠中に光や音などの刺激なしに起きる「自発的微笑」が多く見られる。そして生後2~3カ月からは,覚醒中に他者に対して見せる「社会的微笑」が増えてくる。これまで,自発的微笑は社会的微笑に取って替わられ2~3カ月で消えるものとされてきたが,減少はするものの1歳を過ぎても消えないこともわかってきた。

社会的微笑はさらに,2歳になり,言語が流暢になる時期から,何かに失敗したときのような楽しい場面以外の場面でも生じるようになってくる。つまり,笑顔がさまざまな感情と結びつくようになるのだ。その後の笑顔には文化による違いも見られる。4~5歳の日米の幼児に実験者の前で課題をしてもらい,それに成功した場合と失敗した場合の笑顔について比較した。その結果,日本人は成功でも失敗でも同じくらい笑うのに対し,アメリカ人は失敗すると明らかに笑顔を見せなくなった。これはおそらく,目の前の実験者とのよい関係を保つために笑顔を見せるという,日本人の特徴を示している。

それでは, ヒトの笑顔の特徴はどこにあるのだろうか。進化の隣人であるチンパンジーの笑顔との違いを見ることによって,理解することができるはずだ。

日本モンキーセンターのチンパンジー
高い高いをするチンパンジー母子
図 上:高い高いをされて笑顔を見せるマモル(子) 下:笑顔を見せるマモル(子)と,表情を変えずにそれを見るマルコ(母)。

チンパンジーとヒトの笑顔の類似点と相違点

類似点は2点あげることができる。1つは笑顔の発達過程だ。チンパンジーの赤ちゃんにも自発的微笑があり,生後2カ月からは他者に対する社会的微笑が多く見られるようになる(図上)。 2点目は,笑顔が楽しい感情と結びついている可能性だ。チンパンジーの笑顔は遊び場面で見られる。子どものいる群れと,いない群れで笑顔を比較すると,子どものいる群れの方で笑顔が多く見られる。それは遊びが生じることが,子どものいる群れの方が多いからだ。

相違点も2点ある。まず,チンパンジーは遊び場面以外で笑顔を見せることがほとんどない。おそらくチンパンジーには,ごまかし笑いはない。ヒトでは2歳頃から見られる,さまざまな感情と結びついた笑顔がチンパンジーにはないのかもしれない。もう1つの違いは,他者と笑顔を分かちあう共有することが少ないという点だ。チンパンジーでは,第三者が他者の遊びを見て笑うということがほとんどない。笑顔の共有は,ヒトでは2歳頃から増加してくる。さらに, JMCで生まれたマモルとその母親の観察で明らかになったのは, 自分の子どもの笑顔を見ても,母親が笑顔になるわけではないということだ(図下)。ヒトは自分の子どもだけでなく他人の子どもを見ても,また筆者らは遊んでいるチンパンジーを見ても,つい微笑んでしまう。そのように笑顔が個体間で広がっていくということが,チンパンジーにはほとんど見られない。遊びの最中に当事者同士で笑いあうということはある。しかしそれは,それぞれに遊んで楽しくて笑っているのであって,相手の笑顔を見て楽しい気持ちになって笑っているというのとは違って見える。

楽しいときに笑うチンパンジーといつでも笑うヒ卜

つまり,チンパンジーは自分が遊びなどで実際に楽しい気持ちになっているときしか笑顔を見せないのかもしれない。それによって浮き彫りになるのは,逆にヒトほどさまざまな場面で笑う動物はいないということだ。なぜこれほどまでにヒトは笑顔を見せるのだろうか。

もしかすると,笑顔にはそれを見た他者,そしてそれを表出した自分自身を安心させ,その場を平穏に導く効果があるのかもしれない。他の動物と比較して,出産や育児など生きていくためのさまざまな場面で他者の協力を必要とするヒトは,平和や友好のあらわれである笑顔を広い場面で使うことによって,対人関係や社会を平穏に保っていると考えることができる。チンパンジーもその社会を,他者とのあいさつやグルーミングによって友好を保っている。ヒトはそうした手段の1つとして,非常に簡単で手軽な笑顔を用いているのかもしれない。

読者のみなさんにも,動物園のチンパンジーの前にゆっくり座ってみていただきたい。時間をかけると, ヒトと似ているところと違うところがぼんやり見えてくる。そこにヒトの真の姿が隠されている。チンパンジーに学ぶことは,まだまだたくさんあるはずだ。

この記事は, 岩波書店「科学」2015年6月号 Vol.85 No.6 Page: 0606-0607  連載ちびっこチンパンジーから広がる世界 第162回『チンパンジーに学ぶヒトの笑顔の意味』の内容を転載したものです。