パラボリックフライトへ向かう飛行機前で
ギニア共和国・ボッソウの森の野生チンパンジー

パラボリックフライト

2018年12月,パラボリックフライトに参加した。飛行機が空中で自由落下運動をおこない,機内の空間を見かけ上の無重力にする。本連載でもおなじみの松沢哲郎先生と,宇宙飛行士の土井隆雄先生を中心に始められた計画で,京都大学の教員と学生あわせて7名が1回のパラボリックフライトに一緒に搭乗する。

すでに2017年度に2回のフライト,2018年に1回のフライトがおこなわれていて。私が参加したのは4回目のフライトだ。本連載でも過去のフライトについて紹介が書かれているので,そちらも参照していただきたい(第195回2018年3月号,連載第206回2019年2月号)。フライト中の機内で,認知課題をおこない。重力の有無がヒトの認知機能に及ぼす影響を調べる。人類がゆくゆくは無重力の宇宙空間で生活することを想定した研究だ。友永雅己先生はこれを宇宙認知科学と名付けた。

経験は最良の教師

私がフライトに搭乗する前,心の準備をある程度はしていた。ところが,実際に経験してみると,想像を超える衝撃を受けた。

突然,目の前の世界が細かく素早く上下に揺れた。一体なにがおこったのかと,非常に驚いた。飛行機が自由落下運動をする直前に,速度を一気に上げて上昇飛行をする。その時,通常の重力の2倍程の力が体にかかる。その過重力の影響で,私の平衡感覚がおかしくなったのだ,とあとになって考えれば理解できた。

視界が揺れて体が重たくなったあと,ふっと軽くなった。飛行機が自由落下運動を始めた。無重力だ。目の前にいる人が,宙に浮いた。宙に浮いたまま頭が下になり,体がくるくる回っていた。

機内の様子を,一部始終ビデオカメラで記録していた。その映像から私の言葉をひろってみると,次の通りだ。
「おっ,おほっ。うわー,おー,おおおー。ほほほお。」
言葉になっていない。叫んでいるだけだった。

中学校の授業で,英語のことわざを習ったのを思い出した。「経験は最良の教師である(Experience is the best teacher)」。自分が味わった無重力の感覚は,言葉では説明しきれない。無重力を理解するのは,やはり,自分で経験するのが一番だ。

経験が最良の教師だと感じたことは,過去にもある。ほかならぬ,チンパンジーの研究を始めたときだ。あらかじめ教科書や本で,チンパンジーのことは読んで知っていた。研究のことも少しは知識があった。しかし,実際に目の前で動くチンパンジーを見ると,本で読んだだけでは味わえない驚きと感動を覚えた。以来,チンパンジーは最良の教師となった。彼らがどう振る舞い,どう感じているのかを,実際に見て経験して考えながら,研究を組み立てていった。

チンパンジーは森に残り,ヒトは宇宙に出ていく

パラボリックフライトを経験して,チンパンジーをここに連れてきたらどうなるだろう,と想像せずにはいられなかった。私自身はとても楽しんだが,チンパンジーも楽しむだろうか。答えはおそらく否だ。かれらはパラボリックフライトを嫌がるに違いない。

チンパンジーは総じて保守的だ。見知らぬところには行きたがらないし,見慣れない食べ物は食べようとしない。野生チンパンジーの暮らしを考えると,保守的なのは理解できる。熱帯の森の中で,なわばりを持って生活し,木々になる果実や植物,小動物などを食べて生きている。満たされる資源がすべてなわばりの中にある。危険を冒して見慣れないことを試す必要はない。よく見知った環境で,いつも通りのことをするのが安全だ。

飼育しているチンパンジーを,新しい環境になじませるのは一大事である。人間がせっかく用意した,新しくて広くて立派な運動場でも,チンパンジーはすぐには出ていかない。警戒して,古く見知った環境に留まろうとする。パラボリックフライトなど,もってのほかに違いない。

ヒトの祖先は,熱帯林を出て新しい生息地を開拓した。氷河を超えて雪国にも暮らすようになり,水平線のかなたの島を目指して海を漕ぎだした。雲の上に見えない山の頂にも登る。ヒトの祖先は,豊かな熱帯林で他の類人猿の祖先種との競合に負けて,森を追い出されたのかもしれないが,その過程で開拓者の精神が備わったのは問違いないだろう。そして,二足歩行を始め,脳を巨大化して知性を高度に進化させるに至った。森から出たヒトは,地球上のいたるところに住むようになり,森に残ったチンパンジーに比べて圧倒的に多い人口を持つようになった。

そしてついに,地球からも外に出て,月に降り立った。宇宙空間の基地で生活する宇宙飛行士もいる。元に戻って,パラボリックフライトでの認知研究,そして宇宙認知科学は,人類が宇宙空間で暮らすことを想定した研究だ。森から出たヒトはどこまで行くのか。将来の宇宙での生活を,パラボリックフライトで無重力を実感して想像した。

この記事は, 岩波書店「科学」2019年3月号 Vol.89 No.3 Page: 0264-0265  連載ちびっこチンパンジーから広がる世界 第207回『ヒトは宇宙を目指す』の内容を転載したものです。