図1:第4代国王に謁見した。国王の左隣が山極総長.右隣が松沢.一番左は坂本龍太京大准教授(2018年11月23日.撮影提供:ブータン王室)

ブータンという国

ブータンはヒマラヤの小国だ。北を中国,南をインドにはさまれている。インド平原に連なる標高200mから,標高7500mのブータンヒマラヤの峰々までの高度差がある。豊かな雪解け水を利用した水力発電がありインドに売電している。緯度は日本の沖縄あたり。面積は九州よりやや大きく,スイスよりやや小さい。人口約80万人。チベット系住民が約8割で仏教徒が大多数を占める。国語はゾンカ語で固有の文字がある。

1993年にパキスタンのフンザ,1994年に中国雲南省のモンゴル族,1995年にブータンを訪問した。ちょうど野生チンパンジーの文化の研究が最盛期で,人間の文化がどのように世代を超えて受け継がれているかに興味をもった。両親が小学校の教師をしていたこともあり,学校教育とくに初等教育に関心をもって見て回った。

ブータンと京都大学には永年のご縁がある。1957年秋に,第3代王妃が京都を訪問されたとき,桑原武夫さんらが歓待した。桑原さんは,京大学士山岳会(AACK)の創設者のひとりだ。未踏峰の連なるブータンに憧れた。以後,ブータンと京大の関係は連綿と続いている。最初の訪問を心に留めて,ブータンを対象にしたオール京大の社会貢献を着想した。

2010年10月19日,先代(第4代)国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下に初めてお会いできた。それが契機になって「京大ブータン友好プログラム」が発足した(https://www.kyoto-bhutan.org/)。直近の2018年11月の山極総長一行の訪問が第17次の派遣になる。陛下にまたお会いできた(図1)。

第4代国王との会話

陛下は国民総幸福量(GNH)を唱えた方である。国民総生産(GDP)ではなく,幸福(ハッピネス)こそが国の豊かさの指標になるべきだという。日本国憲法の第9条は戦争放棄で有名だが,ブータン王国憲法の第9条はGNHである。政府の責務はGNHを推進することだと定められている。

父である第3代国王が客死して16歳で王位に就いた。それ以来51歳で退位するまでずっと国の舵取りをしてきた方である。 2008年に憲法を公布して,王政から立憲君主制に移行した。いわば先王という一歩身を引いた立場から国を見守っている。

GNHという概念を提唱したのは1970年代だ。それから長い歳月があって憲法に至る。「どうしてそんなに時間がかかったのですか?」とたずねたら,「教育の普及と識字率の向上を待っていた」というお返事だった。文字が読めなくてはせっかくの憲法も役に立たない。識字率が60%を超えるところまで待って憲法を発布した。

「国の舵取りに必要なものは何ですか」とたずねたら,「知恵と力と慈愛だ」というお答えだった。さぞかしストレスが多いと思うが,「生まれてこの方,ストレスを感じたことがない」とおっしゃる。「えっ。どうしてですか?」とたずねると,「マインドフルネス」だという。日本語に訳すのが難しい用語だ。私見では,「心を観る心」というのが近いと思う。自分の心を,その体を観るように,あるがままのものとして観る。

チャーミングな方だと思う。今回,話の切り出し方が秀逸だった。会談冒頭いきなり「総長はゴリラで,松沢はチンパンジーを研究しているそうだが,ブータンにもエイプがいる」とおっしゃる。ブータンにモンキー(サル)はいるか,エイプ(類人猿)はいない。でも「いる」とおっしゃる。「スノーマンがいる」,雪男はほんとうにいると確信しておられた。ぜひカメラトラップで撮影してみてはどうかというご提案だった。

図2:パロの小学校の授業参観(2010年10月20日,撮影:松沢哲郎)

小学校の環境教育

ブータンの小学校の特徴として,その入学前の幼稚園時代から英語を学ぶ。それがないと国として生き残れない。小学校で毎日習う必須科目は,英語とゾンカ(国語)と環境教育だ。 GNHをどのように定義して,どのように教えるかは今なお議論されているが,環境教育とはGNHという考え方や価値観を教えることと同義だと理解した。

学校の校庭で,身の回りから始める環境保全の実践だ。自分たちの暮らしを自分たちで整える。たしかに学校の内外はきれいだった。そういえば,これも陛下が話していたことが思い出される。日本の篤志家がブータンを支援して,さらに友好の印としてサクラの苗木の贈呈を申し出た。それを陛下はやんわりと断ったという。サクラは外来種だからである。

授業参観をさせていただいた。かつても今も変わらないのは服装だ。伝統を守って男性は「ゴ」という丹前のような着物,女性は「キラ」という服を着ている。教壇に立つ先生をかつては皆が一斉に見ていたが,今は5~6人の小集団に分かれていた。女の子が隣の男の子に勉強を教えてあげていた(図2)。

文化的な伝統を守った暮らしの要諦はGNHという指標の式にある。さまざまな尺度で,ある種の豊かさを数量化できたとしよう。それを分子にする。そして人間のもつ欲望を分母にする。分子の豊かさをどこまでも追求しない。分子はそのまま,分母の欲望を制御して小さくすればGNHすなわち幸福量は高くなる。英明な先王とともにブータンという国の行く末を見守りたい。

この記事は, 岩波書店「科学」2019年4月号 Vol.89 No.4  連載ちびっこチンパンジーから広がる世界 第208回『ブータン:環境教育と国民総幸福量(GNH)』の内容を転載したものです。