2001年1月4日撮影/京都大学霊長類研究所提供 授業のため研究室の勉強部屋に来た、チンパンジーのアイと息子アユム
授業のため研究室の勉強部屋に来たアイと息子のアユム

永年にわたる研究パートナーのチンパンジー・アイが昨年、アユムという男の子を産んだ。アイは24歳。ヒトで言えば30歳代半ばの年ごろにあたる。アユムは順調に育って8ヵ月が経過した。この間、母と子はいつも一緒だ。

最初の1ヵ月、母子は片時も離れなかった。最近、子供はようやく母親から離れるようになった。でも、すぐに胸に戻っていく。夜寝るときは、いつも母親が胸の上に抱き上げて眠る。つまり、1日のほとんどすべてを母子は一緒に暮らしている。子は母にしがみつき、母は子を抱きしめる。

野生のチンパンジーの場合、大体5年に一度の間隔で子供を産む。ということは、5歳になって弟・妹が生まれるまで子供は母親を独占している。実際、3歳をすぎてもまだ乳房を吸っている。弟・妹が生まれるまで乳首を離さない子もいる。きわめて長い乳幼児間を母子は密着して過ごす。

親が子どもを育てるというのは、一見して当たり前の光景だが、必ずしも本能だけでは決まっていない。動物園など、人間の環境で飼育されているチンパンジーでは、ほぼ2例に1例の割合で育児拒否が起こる。

赤ん坊を産み落としたとたん、「ギャーツ」と悲鳴をあげて飛びのいてしまう母親がいる。あるいは恐る恐る取り上げても、うまく胸に抱くことができない。抱いても上下が逆さまになってしまう。どう取り扱って良いのか分からないのだ。

野生ではそうした悲劇は起こらない。子は、生まれ落ちた時から母親にしっかりと抱かれている。周りには兄弟や仲間たちがいる。同じような赤ん坊を育てているよそのおばさんもいるだろう。従って、身の回りに常に、チンパンジーがチンパンジーらしく生きていく上でのお手本がある。

チンパンジーの育児拒否の事例を詳しく調べた結果から、生後の1年間の重要性が浮かび上がってきた。生後の1年間を他のチンパンジーと触れ合える環境で育つことが大切らしい。この場合、一緒にいるのは必ずしも母親でなくて良い。四六時中一緒である必要もない。でもチンパンジーという同種の仲間が必要なのだ。

チンパンジーとして生まれていながら、隔離されてヒトの手だけで育つと、チンパンジーとしての付き合い方が身につく機会がない。大きくなってから仲間と出会っても手遅れらしい。人生の最初のごく限られた時期に適切な経験を積まないと、大人になってから不都合が生じる。

チンパンジーの生後1年というのは、乳歯がちょうど生えそろうころだ。つまりヒトで言えば3歳にあたる。「三つ子の魂百まで」というが、ヒトでもチンパンジーでも、生まれてすぐのころ、どのように育てられたかが大事だということだろう。

アイとアユムの姿から、「しがみつき・抱きしめる」という、ごく当たり前のはずの親子の関係が新鮮に見えた。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 『子育てには経験が不可欠』(2001年01月15日)の内容を転載したものです。