京都大学霊長類研究所提供 生後まもない息子アユムを抱きしめる、チンパンジーのアイ
生後9時間目のアユムを抱きしめるアイ

アイはアフリカで生まれた。1977年11月に日本に連れて来られた。歯のはえ方や体つきからみて,―歳ごろと推定された。日本がまだワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)を批准する前で,研究のためにチンパンジーをアフリカから輸入することが許されたのである。

彼女の記憶の中に,アフリ力の森や親たちとの暮らしがどれだけ残っているのだろうか。生後9ヵ月になる息子のアユムの姿を重ねて類推してみた。

生まれてからずっと毎日,母親に抱きしめられて寝ている。日中も,母親のそばを離れることはない。

1月10日のことだ。8ヵ月半で初めて,アイは口移しでりんごをアユムに与えた。アイが自分で食べようと口に入れたりんごのひとかけらを,アユムがじっと見上げていた。するとアイはそっと唇を突き出してアユムに顔を近づけた。互いに突き出した唇と唇が触れる。口移しでアユムはりんごのかけらを受けとった。母親のぬくもりやにおい,母親と分かち合った味は,アユムの心の中に染み付くように残るだろう。アイもアフリカでの暮らしの断片を心のどこかにひきずっているのかもしれない。

実は2年半前にアイは死産を経験した。ヒトは「十月十日」と表現するが,その計算でいえば,チンパンジーは9カ月で赤ん坊を産む。月満ちて生まれた子は微動だにしなかった。出産と同時に,アイは軽くキャッと悲鳴をあげて飛びのいてしまい,死産とはいえ赤ん坊を抱き上げなかった。

2度目の妊娠が分かると,見守る我々の胸を不安がよぎつた。果たしてアイは赤ん坊を無事育ててくれるだろうか。なにしろ,飼育下の記録では。2例に1例の高率で育児拒否が起こるからである。

習って覚えるものなら,教えて覚えさせればよい。そう思い,妊娠中に子育てを教えることにした。野生チンパンジーの育児の様子を写したビデオを見せた。たまたま人工保育になったテナガザルの赤ん坊がいたので,それをヒトが抱っこしてかわいがって見せた。

ただ見るだけでなく,自分ですることによって覚えることもあるだろう。そう考えてチンパンジーの縫いぐるみを用意した。赤ん坊と等身大のものだ。初めは,頭につけたり,床に転がしたり,頭を下に抱いたりしていたが,ともかくちゃんと抱くようになった。

2000年4月24日夜,アイは無事アユムを出産した。産道から出てきた赤ん坊を片手で受け止めた。顔をはじめ全身をなめた。子供は仮死状態で生まれてきたのだが,自発呼吸を促すように,その口に自分の人さし指を入れた。

アイは,こうした行動をまったく教えられていない。にもかかわらず,しっかりと赤ん坊の世話ができた。母性と呼べる本能が確かにあるのだろう。ただ,それが引き出されるためには,幼児期から積み重ねてきたさまざまな経験が必要なのだと思う。

母親になったアイの顔は穏やかだった。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年01月22日の、 『育ちながら子育てを学ぶ』を転載したものです。