撮影:平田明浩.提供:毎日新聞社
アユムとアイのキス

アイは話しことばをけっこうよく理解している。「手」「足」「囗」「頭」といった音声を確実に聞き分ける。

例えば,「て!」と言えば,間違いなく手を差し出すし,そこで「もうひとつ!」と言えば,もう一方の手を差し出す。「くち!」と言えば口を開ける。こうしたことは,意図的に教えたわけではない。研究の日課を繰り返すうちに,ごく自然にアイが身につけた。

赤ん坊が生まれてすぐのころ,毎日が手探りという感じで発達検査の方法を探していたが,意外にすんなりと母親からの協力を引き出せた。

例えば,床を手のひらでたたいた後,そこを指さしながら「寝て!」と声に出し,さらに両方の手のひらを合わせてそれをほおにあてるしぐさ(つまり枕で寝る格好を表す手話サイン)をすると,アイはアユムを抱きかかえたまま床に横になって寝てくれる。一度も教えていないのに,身ぶりや音声からこちらの意図を読み取るのだ。

アユムが生後4ヵ月になるころ,アイが話しことばを聞き分ける能力を利用して,ちょっとしたテストをしてみた。「あたま!」と言いながら私が自分の頭に手を持っていくと,アイは彼女自身の頭に手のひらを触れる。その直後に,「じゃあ,アユムの頭は?」と言いながら,アイの足元にまとわりついているアユムを指さしてみた。頭ではない。アユムの方を指さしただけだ。すると,アイは手を軽く握りしめ,そのこぶしの指の背でそっとアユムの頭に手を触れた。「じゃあ,アユムの手は?」と言うと,アユムの手に触れた。

アユムが7ヵ月のころ,こんなこともあった。音声理解の発達のテストなのだが,背中を向け座っているアユムに,「アユム!」と呼びかけても一向に振り向かない。するとアイはそっとアユムの背中を押した。アユムが振り向いた。

同じころのことだ。検査の合間にアイにレモンの小さな一切れを与えた。アイは皮を残してレモンを食べた。小さなレモンの皮が床に落ちている。ふと思いつき,「アユムにあげて」と言いながらアユムを指さしてみた。そんなことをしたことはない,まったく初めての事態である。するとアイはレモンの皮を拾って,アユムの口にそっと押し付けた。

ヒトの話しことばをどれだけチンパンジーが理解するか。それは古くからの,そして今でも新しい課題だ。一方で,逆の発想もおもしろい。私かまねするチンパンジーの音声は,かなり迫真の演技になってきた。パントフートやパントグラント,ラフと呼ぶチンパンジーの発声をまねすると,アイやアユムがその声に応えて発声したり,笑いの表情を作ったりする。

「人間のことばを理解するチンパンジー」というのが一つの研究パラダイムなら,逆に,「人間がチンパンジーのことばを理解する」という研究パラダイムもあり得るだろう。チンパンジーの身ぶりや表情,音声までもまねて,「チンパンジーの中に溶け込んだチンパンジー研究」を目指したいと思う。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年02月05日の、 『ことばを聞き分ける』を転載したものです。