京都大霊長類研究所提供
生後6ヵ月目のクレオ

アイに続いてクロエが昨年6月19日に出産した。生まれたのは女の子で,クレオと名付けた。

クロエは当時,19歳半。ヒ卜でいえば20歳代後半にあたる。彼女は,パリの動物園で生まれた。母親が育児拒否をしたため人の手で育てられた。そして,4歳の時に霊長類研究所にやって来た。

アイと同様,妊娠中に「子育ての馴練」を受けた。チンパンジーの子供の姿をした縫いぐるみを,クロエは最初から喜んで受け取った。しっかりと胸に抱き,熱心に毛づくろいし,背をやさしくたたいた。寝るときも一緒で,肌身離さず抱えて持ち歩いた。自然な交配による妊娠であり,縫いぐるみにも深い愛着を示したので,きっとクロエは良い母親になるに違いない。皆そう思った。

ところが,思いもかけないことが出産の時に起きた。赤ん坊の姿が産道から現れた途端,クロエは驚いたように飛びすさった。へその緒がちぎれ,赤ん坊は床にあおむけに落ちた。ギャッという悲鳴を聞いて,クロエは回れ右をしてすぐに赤ん坊の方に駆け寄った。だが,1メートルほど離れた場所で立ち止まってしまった。ゆっくりともがいでいる赤ん坊を,ただ見下ろすばかりである。

しばし赤ん坊を見つめていたクロエは出産直前に床に放り出していた縫いぐるみの方へ歩いて行った。そして,そっと胸に抱き上げた。縫いぐるみを抱いたまま,赤ん坊の方をじっと見つめ,オッオッと呼びかけるように軽い声を上げた。

縫いぐるみがなければ,赤ん坊を抱くかもしれない。そう思って,クロエに麻酔をかけ,縫いぐるみを取り上げた。その胸に赤ん坊をつけて母乳を吸わせてみた。しかし,麻酔から覚めたクロエは赤ん坊を拒絶した。

翌朝,クロエ母子の担当である助教授の友永雅己さんが,赤ん坊を抱いてクロエの部屋に入った。縫いぐるみの時はすぐに受け取ってあれほど大事にかわいがったのに,実物はどうしても受け取ろうとしない。

そこで,赤ん坊を床に置き去りにしてみた。クロエは,赤ん坊をのぞきに行っては友永さんの所に戻る。タオルにしがみついていた赤ん坊がやがてもぞもぞと動き始めた。つかまるものを失ってギャーと泣いた。クロエは何度も,友永さんの顔を見て,「泣いているのに,なぜ抱きに行かないの」とでも言いたげな様子を示した。そして,赤ん坊のすぐそばまで近づいていった。クロエが身を寄せた一瞬,たまたま赤ん坊の手がクロエの体毛をとらえた。しっかりと握りしめて離さない。振りほどこうとしても離れず,クロエも仕方なく抱いた,という感じだった。明らかに赤ん坊の泣き声が母親を呼び寄せ,赤ん坊からのしがみつきが母親をして抱かせしめた,と言える。

「子育て」というと,どうしても「親が子供を育てる」という一方的な響きがある。しかし,クロエの場合,明らかに子供からの働きかけが親としての本来の行動を呼び覚ました。

「子どもが親を育てる」ということもあるのだろう。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年02月12日の、 『縫いぐるみへの愛着』を転載したものです。