生後1ヵ月のパンと生後9ヵ月の娘(自宅で1983年12月)

アイとクロエに続いてパンが昨年8月9日に出産した。生まれたのは女の子で,パルと名付けた。パンは当時,16歳半。ヒトで言えば20歳代半ばにあたる。

パンは霊長類研究所で生まれたので,その日から彼女のことは知っている。パンを産んだ途端,母親のプチは「ギャアアー」と悲鳴を上げ飛びのいた。恐怖におののく,という感じだった。仕方なくパンを人の手で育てることにした。

夜の授乳のためにパンを自宅に連れて帰った。チンパンジーの赤ん坊を家で育ててみてすぐに気付いたことは,チンパンジーの赤ん坊は静かだということだ。めったに声を立てない。ヒトの赤ん坊のように「オギャー,オギャー」と泣いたりしない。

チンパンジーの赤ん坊はしがみつく,乳首を探す,乳首を吸う,という三つの行動を生まれつき備えている。母親のチンパンジーは生まれた子をいつも胸に抱きかかえている。だから,母親の胸にしがみついた赤ん坊は,容易に乳首を探り当てるので,ヒトのように泣かずにすむとも言える。

人間が母親代わりに育てる場合,授乳のために頻繁に抱きかかえはするが,いつも抱いているわけにはいかない。しかし,チンパンジーの赤ん坊は何かにつかまっていないと安定しない。そこでタオルにしがみつかせ,夜はそばで見守った。パンはヒトの赤ん坊と同様のやり方で育てられたのである。

パンは妊娠中に,アイやクロエの子育ての様子をじっくりと見る機会があった。「子育ての訓練」で与えた縫いぐるみにも高い関心を示した。そこで,パンの子育てに期待が高まった。

パンは赤ん坊をそっと産み落とした。ただ,胸には抱き上げなかった。赤ん坊の上に覆いかぶさるようにした。どうしたらよいのか,扱いかねるという感じだった。そして,ヒトが添い寝をするように,赤ん坊の傍らに寄り添って寝てしまった。自分が育ったように赤ん坊を育てようとしたのだろうか。

仕方がないので,パンの担当である助手の田中正之さんがパン母子の部屋に入り,赤ん坊をそっとパンの方に押しやった。パンは,そっと体を離す。そうした繰り返しの果てに,赤ん坊の方がうまく母親にしがみつき,母親も子を抱きしめた。

ヒトの赤ん坊で知られている原始反射と呼ばれるものの一つにモロー反射がある。新生児に急に刺激を与えると,驚いて何かにしがみつくように腕を広げるしぐさをするのである。そこに,「母親にしがみつく赤ん坊」という霊長類に共通する基盤を読み取ることができる。ヒトの場合,赤ん坊は母親にしがみつくのではなく,独りであおむけに寝かされても安定するようになった。そのかわり,「オギャー,オギャー」と泣くことによって母親を呼ぶのである。泣くことで親子のきずなを結んでいる。

赤ん坊の夜泣きに悩まされる。親なら誰しも経験することだ。ヒトは進化の過程で,「母親にしがみつかない赤ん坊」を手に入れた。その当然の代償なのだろう。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年02月19日の、 『静かな赤ん坊』を転載したものです。