Credit: Primate Research Institute, Kyoto University 石器を使うボッソウの野生チンパンジー
石器を使うボッソウの野生チンパンジー. 西アフリカ・ギニアで

アユムは生後10ヵ月になった。生まれてこの方,母親のアイの様子をずっと見てきた。そして半月前,「茶」という漢字を読み取るコンピューターの課題に朷挑戦。いきなり正解して我々を驚かせた。

チンパンジーが本来の野生で暮らす中で,生後10ヵ月の子供はどうしているか。実はよく分からない。アフリカでの調査では,観察期間にどうしても空白が生じる。ある日突然,赤ん坊を持った女性が現れることになる。子供の生年月日は正確には分からない。

野外でのチンパンジー研究が始まって約40年になるが,出産の詳しい観察報告は2例しかない。ある母子の姿を今日見ることができたとしよう。でも明日も見ることができるとは限らない。ときには数力月も見ないということさえある。それが,野外での観察研究の宿命だ。だからこそ,アイ,クロエ,パンという3人の女性の出産と子育てを,間近で,昼も夜も毎日観察できることはたいへん輿重な機会だといえる。

我々は西アフリカ・ギニアの奥地ボッソウ村の周辺で,野生チンパンジーの調査を行ってきた。私自身,この15年間でほぼ毎年1回現地に赴言1~3ヵ月程度の調査をしてきた。その過程で,野生チンパンジーの赤ん坊が育っていく様子を13例垣間見ることができた。個々の子供たちの断片的な観察をつなぎ,そこにアユムらの姿を重ね合わせると,チンパンジーの赤ん坊の発達する姿がおぼろげながら見えてくる。

今のアユムのように,生後1年に近づくころ,野生でも子供はまだ母親にべったりだ。移動するときはいつも母親の腹か背にしがみついている。物を口に入れるが,主に母乳を吸っている。数組の母子が同時に休んでいるときなどに子供たちが出会うことがある,互いに興味は示すが,まだ本格的な遊びにはならない。

ボッソウのチンパンジーたちは,石器を使うので有名だ。一組の石をハンマーと台にして,アブラヤシの硬い種をたたき割って中の核を取り出して食べる。子供は母親に寄り添い,親や周りの大人たちが石器を使う様子をじっと見ている。ハンマーを振り下ろす母親の腕にあごを乗せたり,腕につかまったりする。核を取り出し食べている母親の口元をじっとのぞき込む。口元に手を伸ばしたり,キスをするように唇を近づけて核を奪い取ったりする。至近距離からのぞき込むというのがチンパンジー流の観察方法だ。

道具の石に触ってみる。押してみる。まだ割れていない種を拾って口に入れる。手に取り出して眺める。片手に持った種をもう一方の手の人さし指で触る。基本的には,ひとつの物だけに興味の焦点があっていて,物と物とを関係づけるまでに至っていないのがこの時期の特徴だ。やがて1歳後半ころ,種を石に乗せるなど,物と物とを関係づける行動が,ある日突然見られるようになる。

アイが使うコンピューターは,野生チンバンジーにとっての石器のようなものだ。アユムたち子供は,生まれてからずっと親の様子を見続け,自分でもやってみることで,親の持つ技術を学んでいくのだろう。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年03月05日の、 『石器とコンピューター』を転載したものです。