提供:京都大学霊長類研究所 生後6カ月、チンパンジーのアユムの笑い顔
生後6カ月のアユムの笑い顔

アユムをくすぐると声を立てて笑うようになった。生後9ヵ月ころから顕著になってきたのだが,遊びながら,あご,首の後ろ,わきの下,ももの付け根などを軽く指で押すと「ハハハハハ」と,かすかな声を出す。笑うのは人間だけだと思われてきたが,チンパンジーも笑うのだ。

人間もチンパンジーも,生まれたばかりのころは,くすぐっても笑わない。笑い声が出てこない。やがて,くすぐると声を立てて笑うようになる。「笑う」という同じ言葉で表現されることが多いが,大きく分けて2種類ある。「ほほ笑み・スマイル」は声を伴わない。「笑い・ラーフ」は声を伴う。にっこりと「ほほ笑む」のではなく,「ハハハハハ」と「笑う」。後者の話である。

人間は大人になると,「アハハハハ」と笑う。チンパンジーの大人も,子供と同様に遊びに誘い込むと,声を立てて笑う。アイとよく取っ組み合って,ふざけっこをするのだが,「ハハハハハ」と大きな声を出して笑う。そこでおもしろいことに気が付いた。声をよく聴いてみると,息を吐いて「ハ」,すぐに息を吸って「ハ」,吐いて「ハ」,吸って「ハ」を繰り返している。100メートルを全力疾走したとしよう。ゴール直後,大きく肩で息をすると,「ハッハッハッハッ」となる。形としては,その声に近い。要点は,息を吸うのと吐くのを短く繰り返して声を出していることだ。

人間の大人は「ハー」と吐くべきひと息を,途中で短く止めて,「アハハハハ」と笑う。息を吐いて「ハ」,そこでいったん息を短く止めて,また息を吐いて「ハ」,短く止めて,また吐いて「ハ」だ。

一般にあまり認識されていないのだが,人間はもともと「発声器官」があるわけではない。進化の過程を考えると,口や舌やのどは,本来は「そしゃく器官」,物を食べるためのものであり,「呼吸器官」,息をするためのものだ。物を食べたり,息を吸ったりするときに,ある種の音声が必然的に伴う。その音が「声」として,コミュニケーションの中で利用されるようになったのだろう。

人間の音声言語の普遍性は何か。私の答えはユニークだ。「ハーーと出す1回の呼気を途中で何度も止めて,分節した声を出すこと」である。日本語でも,英語でも,何語でも同じ原則だ。その分節した呼気に,唇の形や舌の位置で修飾をかけて,多様な音声を作り出している。

人間の赤ん坊は,1~2力月のころから,「アー」「ウーー」と長く引き伸ばした声を出す。そのひと息を,いったん止めて,「アー・アー」と2分節の声を出すようになる。さらに,それを唇や舌で修飾して,子音と母音からなる音にする。「バー・バー」とか「ダー・ダー」とか。「なん語,バブリング」と呼ばれる声である。そして,「バー・バー」と声に出しながら手を振って,バイバイをするようになる。

チンパンジーは笑う。しかしヒトと同じように笑うわけではない。その微妙な違いに聞き耳を立てながら,人間の言葉の生まれる道筋に思いをはせた。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年05月08日の、 『笑うチンパンジー』を転載したものです。