撮影:平田明浩.提供:毎日新聞社 アイに見守られながら運動場で一人で遊ぶアユム
アイに見守られながら運動場で一人で遊ぶアユム

「ボク,何でもできるよ。片手でぶらさがるのだって」「ボク,ひとりでできるよ。お母さんに抱っこされなくても歩いて行けるんだ」-。そんな声が聞こえてきそうなアユムの成長ぶりである。

仲間と暮らす運動場から,コンピューターのある勉強部屋まで,チンパンジーの専用通路が廊下の天井に取り付けてある。距離にして30メートルはゆうにある。母親の前をアユムがトコトコと一人で歩いていく。

よく見ると,「クラッチ歩行」をしている。クラッチとは英語で松葉づえのことだ。松葉づえを両わきにはさんで歩くように,左右の手が両方同時に前に出る。そして両腕の間を足がすり抜けるように前に出る。それがクラッチ歩行の特徴だ。

チンパンジーの赤ん坊が急いで歩くときは,クラッチ歩行になる。幼いながらも懸命に歩く。そのアユムが立ち止まると,アイも立ち止まる。「子供を先に歩かせる」というのは,野生チンパンジーの場合でも同じだ。母親は,子供の後ろ姿をいつも見守っている。母親の方が先に行ってしまうと,子供は唇をとがらせて「フッフッ」と小さな声を立てる。「心細いよー」ということなのだろう。

通路で立ち止まられては迷惑なので,「早く行って!」と母親のアイに声で催促することもある。そんなときアイは「早く行きなさい」というように,そっとアユムの体を押す。けっして無理強いはしない。子供を引きずっていくことはない。たたいたり,しかったりすることもない。そっと押すだけで,子供が自分から動き出すのを待っている。

天井通路から床に下り立つまでの高さは約2メートル。大人のチンパンジー用にステップが取り付けてある。間隔は60センチで,身長60センチのアユムにとってはとてつもない難所だ。この大人用ステップにつかまり,アユムは体を伸ばしさって下りてくる。

ここはまだ難しい,という場面になると,アイはアユムにそっと手を差し伸べる。胸にしがみついてきたら,「抱っこ」して運ぶ。アイが腰を下ろしてしゃがむ姿勢になって,背中を子供に向けることもある。子供は母の背中にしがみつく。「おんぶ」して運ぶのだ。抱っこで始まり,おんぶの方が多くなる。しかも最近は,アイがそうして背中を向けているのに,アユムが抱きつこうとしない光景を多く目にするようになった。

ボク,ひとりでする!

アユムが5月中旬,運動場から勉強部屋まで一人で歩き通して,我々を驚かせた。それまで母親の胸にしがみついて移動していたところを,自分の力だけで通り抜けた。見守る人々が思わず拍手をした。

チンパンジーの親はけっしてしからない。けっしてたたかない。親の意のままに子供を動かそうとしない。だからといって,ほったらかしているわけではない。子供の姿をいつも注意深く見守っている。そして子供が親を必要とする,そのときだけ,そっと手を差し伸べる。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年05月21日の、 『ボク一人でできるんだ』を転載したものです。