撮影:平田明浩.提供:毎日新聞社 アユム(1歳3ヵ月)を抱いて遊ぶ
アユム(1歳3ヵ月)を抱いて遊ぶ

毎朝9時,アイとアユムと私の3人で遊ぶ。それが日課になっている。ブースと呼ぶ小部屋に私が入ると,アユムはすぐに近寄ってくるようになった。足元にまとわりつく。踏みつぶさないようにそっと床に腰を下ろす。

「おひざにおいで」のしぐさをする。座った背中を丸めて頭を低くし,視線の高さをアユムに合わせ,口を大きく開けた笑顔を作る。両手でひざをぱたぱたたたく。その姿勢のまま上体を前後に軽く揺らす。チンパンジーが相手を遊びに誘うときのしぐさをまねている。

するとアユムは,ぱっと笑顔になって,両足で立ち上がり,両手を広げて,小走りに駆け寄って抱きつく。その様子は人間の子供と同じだ。アユムは私の首のあたりにひしっとしがみついて離れない。

両手をアユムのわきの下に入れて,そっと体から引き離す。アユムはほほ笑んでいる。口を閉じたまま水平に引いて,口の端がきゅっと持ち上がっている。穏やかで,楽しい雰囲気のときに,チンパンジーはこの微笑を見せる。口が大きいので,ニーッと口角を横に引いた表情が際立つ。私もほほ笑む。顔と顔を寄せ,目と目で見つめ合う。どちらからともなく,口をまるく開けて笑顔になる。プレイフェイス(遊びの顔)と呼ばれる表情だ。ヒトもチンパンジーもニホンザルも,遊ぶときにはこの表情になる。一般に,人間の喜怒哀楽を示す表情は,霊長類に広く共通する起源をもっている。

アユムを両手で持ったまま,ゆっくりとひじを伸ばし,高くかかげる。目と目を合わせた笑顔のままだ。アユムはされるがままにじっとしている。高くかかげては下ろす。それを繰り返す。アユムの体重は5.8キロ。ちょっとしたバーベルのようだ。人間の親が赤ん坊にする「高い,高い」の遊びである。野生のチンパンジーも,アイも,「高い,高い」をして子供をあやす。

最初は,アユムに触らせてももらえなかった。アイの腕の中にいる新生児にちょっと触らせてもらうところから始まった。生後4ヵ月,一人歩きを始めたアユムにそっと手を添えても,アイが許してくれるようになった。10ヵ月,アユムの方から私のあぐらの中に入ってきた。1歳1ヵ月,あぐらの中で寝入るようになった。そうした積み重ねで,アユムが1歳3ヵ月になった今,ようやく私も「高い,高い」をさせてもらえるようになった。母親のアイは傍らで静かに見守っている。

私と同様,ペンデーサもアユムを抱ける。ポポはパルを抱ける。母親以外のチンパンジーが子供を抱けるようになる過程は,私と同様だった。まず,触らせてもらう。子供と見つめ合って笑顔で遊ぶ。そのうち,子供の方から近寄ってきて 触る。子供がよじ登ってくる。子供が抱きついてくる。あぐらの中で安心して眠るようになる。そしてようやく抱きしめられるようになる。そうなるためには,子供からも,母親からも信頼される必要がある。人と人のきずなと同様に,信頼を得るには長い時間と忍耐が必要だ。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年08月20日の、 『アユムと遊ぶ』を転載したものです。