撮影:平田明浩.提供:毎日新聞社
図置き去りにされ,「フーゥ,フーゥ」と心細げなかぼそい声で母親を呼ぶアユム(1歳5ヵ月)

夜空を見上げると満月だ。キンモクセイの甘い香りが漂ってくる。9月下旬の1週間,アメリカに行っていたのだが,戻ってきたらアユムがひとまわり大きくなったように見えた。少年の面影が漂う。

最近,声が変わってきた。昨日は,「アッアッ,アッアッ」と連続的に声を出して駆け寄ってきた。「パントグラン卜」と呼ぶ大人のあいさつの声に近い。一声だけでなく二声続いていたし,それぞれの一声が「アッアッ」というように2音節ある。ついこの間まで,こうした場面では,「アッ」とか「オォー」とか,1音節の声がほとんどだったのに,急に様変わりした。

「参与観察」という新しい研究パラダイムでチンパンジーの振る舞いを観察している。チンパンジーの母親と子供がいるところに,検査者が仲間として入り込む方法だ。毎朝1時間半をアイ・アユム母子と過ごしている。母親との間に培ってきたきずなをもとに,母親に協力してもらって,アユムの発達を検査する。そうした手法で声の発達についても調べている。

例えば,アイに「天井に行って」と声と身ぶりで指し示して遊びに誘う。アイは天井にぶら下がって,私と遊び始める。こうして,アユムが「母親に置き去りにされる」という状況を実験的に作り出す。独りぼっちになったアユムは「フーゥ,フーゥ」と心細げなかぼそい声を出す。「フィンパー」と呼ばれる声だ。この声を聞くと,母親はさっと子供に駆け寄って胸に抱きしめる。

チンパンジーには「パントフート」と呼ぶ遠距離コミュニケーションに使われる顕著な声がある。文字で表記すると,「フー,ホー,フー,ホー,フーホー,フーホー,フーホー,フーホー,フーホー,ホワーォ,ホォォォ」という一連の声である。人間の話し言葉は,吐く一息を途中で小刻みに止めて「あ・い・う・え・お」と異なる音を出すとこるに特徴がある。チンパンジーの声は,呼気と吸気を繰り返して出す声だ。唇をとがらせたまま「フー」と息を吐き出し,そのまま息を吸って「ホー」の音を出す。

外の運動場で,「ギャアー,ギャアー」という悲鳴が聞こえた。そこですかさず私がパントフートをする。するとアイも必ずつられてパントフートする。これは「おたずねパントフート」と呼ばれ,「おーい,どうしたぁ?」という意味である。チンパンジーは,パントフートにはパントフートで応える。チンパンジーの声を私がまねし,母親のアイがつられて発声したとき,アユムがそれに対してどのように応じるかを見ている。

今日初めてアユムは唇をとがらせて,「オッオッオッオッオツ」と多音節の声を連続的に発声した。この「パントフートのような声」を発しながら,毛を逆立て,両足で立ち上がり,両手で壁をどんどんとたたいた。ちょうど父親のアキラがパントフートするときとそっくりなしぐさだ。これから,どのような経過をたどって,チンパンジーの子供がチンパンジーの大人と同様の音声を獲得していくのか,ぜひ見守っていきたい。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年10月08日の、 『おたずねパントフート』を転載したものです。