チンパンジーの赤ん坊は生後8ヵ月ころから,人さし指をピンと伸ばして物に触れるようになる。軽くこぶしを握り,人さし指だけを立てて,その先端で小さなものに触る。例えば,いがのついたままのクリを床に置くと,1歳5ヵ月のアユムはそぉーっと人さし指を近づける。どの子も大体同じころから始める。

人間の子供も同様だが,さらにその先がある。どういう文化で育っても,9ヵ月から1歳半ころまでに,いわゆる指さしを始める。逆に,そのころになっても指さしをしない子は,精神的な発達の遅れや障害のあることが多い。

チンパンジーの場合,手指の形は指さしそのものなのだが,指で物に触れる行為でしかない。人間の子供のように遠くの物を指さすということはない。しかも人間の子は,指さしをするだけでなく,「ほら,あれ見て」と言わんばかりに「アッ,アッ」と声を出しながら遠くの物を指示する。そもそも人間の指さしは,それを理解する相手があって初めて成り立つ行為だ。

では,人間が指さしをする状況でチンパンジーはどうするかというと,「手さし」をする。手を軽く広げ,ひじを伸ばして,指し示す物の方向へ腕を差し伸べる。こうした手さし指示は,野生チンパンジーではあまり見られないが,人間との付き合いが多い飼育チンパンジーではごく普通に見られる。

パンがまだ小さいころこんなことがあった。当時,大学院生だった田中正之さんと私の3人が,運動場で追いかけっこ遊びをしていた。「追いかけて」と相手を誘うとき,ひじを伸ばして相手に手を差し伸べる。たまたま,パンと私を結ぶ線の中間に田中さんが位置した。パンが手を差し伸べた。近くにいた田中さんが誘いに乗ろうとすると,パンは腕をいったん下ろした。そして,再度腕をあげて手を差し伸べ,あごを軽くしゃくりあげ,田中さんの肩越しに私の顔を見て,「アッ,アッ」と声を出した。手と目と声で,遠くの私を指名して遊びに誘っていたのだ。        

指さしの理解についても調べてみた。大学院生の岡本早苗さんの発案で,カップを二つ用意した簡単なテストだ。板の上で左右にカップを伏せて並べる。一方 の下に干しぶどうを一粒隠しておく。そのカップの方を,人さし指で軽くトン指さしする。指さされたものを理解する。一見当たり前のようだが,これがなかなか難しい。人間との関係が希薄なチンパンジーだと,指さしをしても指の先端をしげしげと見てしまう。コミュニケーション障害を持つ人間の子供でも同様なことが起こる。「人さし指の先にある空間をたどってその先に目を向ける」 というのは,極めて高度な知性と言えるだろう。

この記事は, 毎日新聞 連載"松沢哲郎のチンパンジーは進化の隣人" 2001年10月22日の、 『遠くを指さす』を転載したものです。